イエス・中山みき・女性の出産

不妊の女の癒しとマリア崇拝

谷(谷泰ー熊田注)    イエスは悪魔にとりとかれた者、ハンセン病患者などをなおす。アスクレピオスもいわば病気なおしですが、アスクレピオスの場合に、女性に関していうと、不妊をなおすという話がある。

山形 イエスにはそれがないんですよ。

谷 そこです。それがないのはいったいなぜですか。

山形 石女というのは、聖書のなかでは呪われた存在なんです。神の罰なんですね。これは女性にとってたいへんなことなのですが、それなのに、それをイエスが積極的になおしたという話はないんですよ。旧約のヤハウェ不妊をもなおす神ですから、これは不思議です。イエス自身がまず独身でしょう。谷さんのご研究のように、イエスの神話的表徴のなかで、性の原理はひじょうに重要なんですが、イエス自身が処女降誕であり、また穢れのない仔羊でありとおしたために、不妊の女が避けられるのか、このへんのところはわかりません。アスクレピオス(イエス当時の病気なおしの人々)不妊の女をなおしますからね。私も不思議だなあと思っていたんです。

 ただし、ひとつだけ補足しますと、マリア崇拝に、この謎をとく手がかりがあるようにおもわれます。イエスにはできなかった癒しを、マリアが一二分に補完している。マリアは安産と不妊の癒し、とくに不妊の女とマリア崇拝の関係は絶妙ですね(「キリスト教神話の構造《シンポジウム》」山形孝夫『治癒神イエスの誕生』ちくま学芸文庫、2010年(シンポジウム開催1980年)、pp.255-256)。

 

フェミニズムを通過した現代の視点からすれば、イエス不妊の女性をなおさなかったのは不思議でもなんでもない。旧約やイエス当時のアスクレピオスや当時の社会通念と違って、イエスは女性を「産むべき性」とは考えていなかったのであろう。不妊を「治すべき病」とは考えていなかったのだろう。マリア崇拝は、イエスの死後、キリスト教が「女性=母性」という社会通念に妥協したのであろう。

 天理教教祖の中山みきも、女性の出産については「ひとつの苦労」と言っているだけで(「女には、子を産むというひとつの苦労があるで」)、女性は「産むべき性」だとか「女性の徳分」だとは一言も言っていない。事実、みきが一時期自分の後継者になることを期待していたふしのある五女こかんは、生涯独身で子どもももたなかった。現代の年配の天理教女性には、出産を「女性の徳分」と考え、現実に子だくさんの人も多い。「子を生まん」のは「こうまん」だからだ、と語呂合わせの教えを説いている教会もあるようである。今後の天理教は、もっと、独身・子なしであった「ひながた」こかんの例を強調すべきではないだろうか。