「母もの」としてのカミュの『よそもの』

 『異邦人』の自序でカミュは次のように書いています。
 母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑を宣告されるおそれがある、という意味は、お芝居をしないと、彼が暮らす社会では、異邦人として扱われるよりほかはないということである。ムルソーはなぜ演技をしなかったか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ。嘘をつくという意味は、無いことをいうだけではなく、あること以上のことをいったり、感じること以上のことをいったりすることだ。しかし、生活を混乱させないために、われわれは毎日、嘘をつく。ムルソーは外面から見たところとちがって、生活を単純化させようとしない。ムルソーは人間の屑ではない。彼は絶対と真理に対する情熱に燃え、影を残さぬ太陽を愛する人間である。彼が問題とする真理は、存在することと、感じることとの真理である。


 ジャン・メルソー=アルベール・カミュ自身の家族構成を考えてみると、父は息子が一歳のときに戦死し、あとは母子家庭(母方の祖母がいますが)で育っている。極貧の暮らしで、母は文盲であり、家には一冊の本もなかった。聴覚障害のあった母親は、きわめて寡黙で、子どもたちとのあいだにはほとんど会話らしい会話がなかったらしい。カミュにとっては母の沈黙に寄り添い、その沈黙を計るようにして言葉を紡ぎだすことが、作家として出発するにあたっての重要な課題であったのです(野崎歓カミュ「よそもの」きみの友だち』みすず書房、2006年、p99)。


カミュの『よそもの』を「母もの」小説として読み返すこと。