東京都は『源氏物語』を有害図書に指定しよう!

日経ビジネスオンライン』3月23日号より転載 http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20100319/213488/
伊東 乾の「常識の源流探訪」

東京都は『源氏物語』を有害図書に指定しよう!
――「非実在青年・光源氏」と「ピカチュウ」のやりたい放題


 前回も問題にした「非実在青年」が登場する東京都の「青少年健全育成条例」ですが、3月19日の都議会で継続審議となりました。拙速な採決などなかったのは何よりと思います。規制すると公称している対象と比べて、条例案の文言が指し示すエリアがあまりにも広すぎ、過失であるなら不注意が過ぎ、故意であるなら「思想統制」などと非難されて言い逃れのできない、恣意的運用が可能な作文でした。
 本当のことを言えば、今回は地下鉄サリン事件(1995年3月20日)から15年を迎えて、という内容を書きたい週でもあるのです。しかし、実はこの原稿を打っていた最中にも、都議会では議事が進行したのです(Twitterツイッター=で生中継してくださる方があり、いながらにして議事が手に取るように分かりました。便利な世の中になったものです)。
 前回は話題で、多くの方にご意見を頂きました。そこで今回も継続して、このトピックスを、しかし、およそほかの方とは違った角度から考えてみたいと思います。
 あえて率直に、僕自身の立ち位置から、つまりコミケやアニメに興味・関心が薄い層からの、都条例案文の拙速乱雑な文言への疑問です。題して「光モノ二題」。といっても寿司ネタのサバやコハダではなく、焦点を当ててみたいのは「光源氏」と「ピカチュウ」です。


「淫行少年光源氏」を放置して良いか?


 始めに、重ねて率直に告白かつ懺悔したいのですが、私自身は「エロゲー」ことアダルトコンテンツを含むコンピューターゲームについて、見たことも遊んだこともありません。東京都がターゲットにしているという「コミケ」ことコミックマーケット(マンガやアニメなどを題材にした同人誌の即売会)にも行ったことがないし、厳密にはこの問題をこの文脈で語る資格はないと思います。
 しかし、いったん条例なるものが成立すれば、規制の対象は相手を選びません。そうなると「元来はコミケを狙い撃ちにするつもり」だった条文が「ほかのターゲットはないか」と拡大解釈されて、おかしなことが広がる可能性がある・・・というより、その可能性が高い。そうなると「エロゲー」とは縁の薄いクラシックの音楽家である私にも、関わりが少なくないように思います。
 具体例で行きましょう。最初の例は「光源氏」です。
 誰もが知る日本の古典『源氏物語』は、紫式部の手になる世界最古の「長編小説」。内外にその誉れの高い文学作品、ということになっています。江戸時代の国学者である本居宣長なども、「やまとごころ」の原点の1つとして絶賛しました。
 幾度も少女マンガなどに描かれる『源氏物語』最小限のアウトラインを記してみると
 「桐壺帝(天皇)」が「桐壺更衣」に生ませた、元は皇子である「ヒカル君」。美貌と才能に恵まれたヒカル君は、お告げによって皇子から臣下に籍を移され「源氏」の姓を賜ります。
 早くに生みの母が亡くなり、その面影を求めて義母に当たる「藤壷中宮」と関係してしまったり、そこで生まれた子供が天皇(「冷泉帝」)になってしまったり・・・。
 という『源氏物語』の詳細は、ほかに譲りましょう。
 今ここで注目したいのは、「ヒカル君」18歳が、恋い慕う「藤壷」の姪で、よく似た面影の10歳の少女「ムラサキちゃん」を半ば誘拐し、思い通りに育て、14歳になったムラサキちゃんにヒカル君22歳が無理やり関係を持ってしまう部分です。
 今で考えれば「22歳大学4年生、14歳の女子中学生に淫行」、たいへんな事件です。もし都が、あの条文のような方向で、まじめに青少年を「健全」に育成したいというのなら、こんな内容の書籍は、ただちに「有害図書指定」してもらわなければなりません!


都教育委は『源氏物語』を高校教育から放逐しよう!


 行政の施策には一貫性というものが求められるでしょう。あんな条例を通したのなら、東京都教育委員会は、こんな有害な小説、高校教育から全面追放しなければならないんじゃないですか? 3月17日辺りには都から追加説明がいろいろ出ていましたが、それを参照しても、こういう「不健全」なものはアウトになるように思います(そういう付け焼き刃の言い訳を都職員が出してくるのがイカンと言っています。今回の記事は、大半が反語ですから、くれぐれもお読み間違いのないように!!!)。
 ある日、病気療養のために山寺の近くに出て来たヒカル君(18歳)が、垣根の隙間から見るともなしに隣家の様子を覗き見していると・・・要するに「ノゾキ」ですね(この時点で犯罪的ですが)。
「せっかく捕まえて籠の中に入れておいた雀の子を、召使いが逃がしちゃったのよ、プンプン!」
(「雀の子を犬君がにがしつる、伏籠の中に籠めたりつるものを」とて、いと口惜しと思へり:巻[若紫]『源氏物語』)
 と、年の頃10歳のムラサキちゃんが怒っている。その表情が、自分の恋い焦がれる、亡き母にそっくりだという、恋しい「藤壷さん」とウリふたつであると気づいた「ヒカル君」18歳、ゴクリと生唾を飲み込みます・・・明らかに不品行な非実在青年18歳です。
 なんと言ってもヒカル君は有力者のジュニア、そこで、なんとしてもこの女の子が手に入れたいと思う。当然親は訝しがりますが、最後はもう略奪同様に屋敷に連れ去ってきて、自分の思い通りの女性に育ててゆこうとします。こういう刑事事件、どっかでありましたよね。こういう欲望、決して昨日今日ではなく、1000年以上前から、一貫してオトコにはあるようです。
 それにしてもなんと言う不埒なシーンでしょう。ハイティーンの男子が、もろもろ良からぬ感情も持ちながら、ノゾキで好みの少女に目星をつけ、拉致して自分色に染めてしまう・・・こんな小説を中学や高校の、しかも国語必修の古典で教えるなぞ、もってのほかというべきでしょう、もしも都条例のようなことをマトモに考えるのであれば。
 ・・・え? 「若紫」の上のくだりは、国語の教科書にも頻繁に引用される、超有名箇所だ? 入試にも再三出される代表的なエピソード?? 
 これはいけません。ただちに東京都は教育委員会と連絡を取って、こういう不届きなシロモノはすべて検閲・削除、都立図書館に並んでいるすべての『源氏物語』も「悪書追放箱」に投げ込まなければ、、「施策の一貫性」が保てないんじゃないでしょうか?


条例成立と同時に「源氏」は有害図書


 ヒカル君は、彼の「太陽の季節」に相当する年配に幼女を連れ去り、数年間拉致しながら(?)1から10まで自分色に染めあげ、それに飽き足らず、ついには無理やり、男女の肉体関係も強要してしまいます。全くトンでもない小説です。
 ある日、女房たちが、どうした訳かいつまでも起きて来ないムラサキ姫を心配して「お具合でも悪いのかしら」と心配していた。ヒカル君は先に起きて部屋に帰ってしまう。ようやくムラサキちゃんが顔を上げて枕元を見ると

あやなくも隔てけるかな夜を重ね

さすがに馴れし夜の衣を

(何で今までチギリを結ばずに、寝間着を隔てて一緒に寝ていたのか分からない。幾晩も一緒に添い寝してきた私たち2人の仲なのに)

 と殴り書きした歌が。ヒカルにいさんが、あんなことをする人だなんて、今まで夢にも思わなかった。どうしてこんなイヤな奴を、今まで大好きになっていたのだろう、とムラサキちゃんは情けなくて、また泣きたくなってしまった。
(人々「いかなればかくおはしますならむ。御心地の例ならず思さるるにや」と見たてまつり嘆くに[中略]ひき結びたる文 御枕のもとにあり。何心なくひき開けて見たまへば あやなくも 隔てけるかな夜を重ね さすがに馴れし夜の衣を[中略]かかる御心おはすらむとは かけても思しよらざりしかば、などでかう心憂かりける御心を うらなく頼もしきものに思ひきこえけむ、とあさましう思さる。:巻[葵]『源氏物語』)
 こんな経験をしたムラサキちゃん。当然のことながら、深く心に傷を負います。今風に言えばPTSD心的外傷後ストレス障害)ですね。これ以来、ムラサキちゃんは生涯、どこかに暗い影の射した人生を送ることになります。
 何より最悪なのが、夫であるヒカル君が極度のマザコンであること。自分の顔を見ながら、その向こう側に初恋の人「藤壷」の面影を見、さらにその向こうに見ることなく分かれた生みの母の顔を見ているという始末。いったいワタシは何なのよ! とムラサキちゃんが怒るのは当然です。初体験のPTSDに加えて

 「・・・あの人は私なんか、本当は何も愛してはいないんだわ。藤壷のおばさまの代わり。亡くなったお母様の代わり。あの人は、私が物心つく前にさらってきて、何でも自分の好みに私を染め上げた・・・そうだわ、私には、私らしい自分なんか、何も認められてはいないの。ただのお人形・・・仮に『私らしさ』がどこかにあっても、あの人は気にも留めてくれない。決して振り向いてもくれないもの・・・ああ、本当の私の幸せはどこ!!?? 私の人生を返して???!!!・・・」
 ざっくりと言えばこんな物語ですね。こんな「文学」が「古典の傑作」だなどとは、あの「条例案」を作った都としてはトンでもないことでしょう。今すぐ東京都は教育委員会に指示を徹底して、ただちに有害図書に指定してゲンジと名のつくものは、すべて回収しなければ、これはいけませんね、あんな条例を通すのであるならば。
 それにしても、どうして1200年も昔に書かれた『源氏物語』が、21世紀の今日も、私たちが正面から読むに値する古典足り得るのか?
なぜ「源氏物語」が世界最古の大河小説、それも極微の心理の綾を描いた傑作として、読み続けられているかと言えば、「心の底から信じていたお兄さんにレイプ同様に関係を強要され」「その心の傷を生涯に渡って消すことができない」といった、時代を超えた人間の真実があるからに違いありません。


「スケベ心」の深層性:命がけのホンネがあるから感動する


 コチトラも、ダテに職業芸術家をウン十年やってません。人間の因果の、最も切実でグチャグチャなところが、長く残っている芸術の大半には脈々と息づいているのは、身体で知っています。生理的欲求に狂った高校生の性の暴走と悲劇を描いた石原慎太郎の『太陽の季節』も、一例に挙げられるかもしれません。
 ひょっとすると、石原知事個人がコミケが嫌いというのは、ことによると同族嫌悪、近親憎悪なんじゃないでしょうかね。
 「噴出する若者の性」というポピュラリティで、慎太郎・裕次郎の兄弟以下、今日の石原王朝なり石原軍団なりがあるわけです。思うことがあって不思議ではありません。映画「太陽の季節」がきっかけになって「映倫映倫管理委員会)」ができたとも聞きます。何か罪滅ぼしの気持ちがあるのかもしれませんが、そうだとしたらどこかズレていますね。
 さて、今日のように、ビデオもアニメも、写真も「エロゲー」も、何もなかった大昔、平安時代から明治直前まで、絵巻物で夜ごと語られた『源氏物語』の巻の数々が、どれくらい、現在の想像を絶して「エッチ」であったことか、考えてみたいと思うのです。
 今日でも「ハーレクイン・ロマンス」とかですか、ああいう「濃厚」なロマンス本がお好きな方は少なくないと思います。1000年以上も昔から、脈々とこの「物語」を伝えてきたエネルギーの大きな部分は、ある種の「スケベ心」であると思うし、またそんな「スケベ心」という実態を伴うからこそ、本当に悲しくもあり、美しくもあり、はかなくもある人生と死の深層が描かれるのにほかなりません。芥川賞辺りの選考会なら「うーむ、人間が描かれている!」とか、エラい人がそんなことを言いそうなところです。
 例えばシェークスピア描くところの「ロメオとジュリエット」。こちらはロメオ君が16歳、ジュリエットちゃんに至っては13歳!!! ですよ。高校1年生のロメオが中学1年生のジュリエットの寝室の窓の下からこっそり呼びかける・・・これは尾崎豊の世界ですね。盗んだバイクで走り出したくても17世紀にバイクはありませんでした。青少年の健全な育成に、どう考えても有害ですね。


太陽の季節』は即時絶版。印税は罪滅ぼしで全額寄付!


 おっと、うっかり忘れかけていましたが、提案者は人に率先して範を示さなきゃいけませんね。石原慎太郎の『太陽の季節』は条例成立と同時に即座に有害図書に指定、あの条例案の名義上の「提案者」が著者ですから、文庫を含めすべて絶版・自粛、有害図書で得た印税は過去に遡って積算したうえ慈善団体に寄付など、本人も率先して懺悔しなければ、成り立つ道理ではありませんね。
 自分から「提案」しているんですから、それくらいのシメシもつけられなきゃ、それこそ有権者に合わせる顔がないでしょう。それとも都合の良いところだけつまみ食いで、あとは知らぬ顔? そこまで今の国民は甘くないと思いますよ。
 いわば「セルフ焚書孔儒」、自分自身も自分の墓穴を掘らなきゃ、筋道通らんでしょう。できないなら、これはもう筋の通った作家とは、到底呼ぶことはできない。これはカッコクのどんな芸術家に訊いても、そう答えると思います。言行不一致くらい、作家として恥ずかしいことはありませんから。
 さあ、都内のあらゆる図書館にある『太陽の季節』を、さっそく回収して焼却処分にしなくては・・・おっと、脱炭素社会でエコっぽくないなら、有害図書太陽の季節』専用ポストにでも回収して、東京湾の埋め立てなど、クリーンに役立てるのが良いかもしれませんね。
 閑話休題。「アニメ」にも「コミック」にも「エロゲー」にも思い入れがない私が、なぜ今回の東京都の稚拙な作文に疑問を感じたか。理由はいくつかあります。
 その中の1つは、ただちに今回触れた『源氏物語』を想起したからです。かつて1992年から1995年にかけて私は、恩師である作曲家・松平頼則のオペラ「源氏物語世界初演の指揮/芸術監督を務めました。作曲段階からお手伝いし、演出は渡邊守章、振付は厚木凡人。渡邊教授は故・岸田今日子さんらと共に演劇集団「円」で演出を担当され、仏文学者としても知られる恩師(東京大学名誉教授)ですし、厚木さんは新国立劇場のバレエ部門で重責を担われた、あえて分類すれば「ハイカルチャー」の最右翼側と言えるでしょう。
 多分、東京都も石原慎太郎も、私たちのこういうプロダクションを「バカなマンガ」とか「芸術的でない」とは言わないでしょう。しかし当時のプロデューサー、秋山晃男さん(アルク出版企画、当時は辻井喬事務所を兼ねていたと思います)が中心となって、長い期間をかけて議論した中でも「紫の上」の悲劇をどう描くか、大いに頭を悩ませました。
 まだ物心つかない10歳の少女若紫、原体験として大好きになったお兄ちゃんの光源氏、長年安心しきって添い寝してきたのに突然、理不尽な力によって壊されてしまったのは、心を支える何かとても大切な絆だったに違いありません。「源氏」の本質と正面から向き合うならこの部分、つまり幼時から信頼しきってきた兄のような存在に犯され、狂わされた女性の心理の深層から、決して目をそらすことはできません。石原慎太郎辺りではなく、円地文子でも橋本治でもいい、問題と真剣に向き合ってきた文学者なら、誰もが直面してきた問題と思います。
 実際に1995年、埼玉県と福井県で「松平源氏」を上演した私たちが採用した演出は、表面的には「エロゲー」とは似ても似つかないものでした。「アンフォルメル花鳥風月」の画家、今井俊満が『源氏物語』に取材して描いた作品「紅葉賀」の前で、厚木さんが振り付けしたダンサー2人が舞う抽象的な舞台でした。
 しかし、私たちはいささかも、表現に値引きをしたつもりがありません。逆に言えば、どんな抽象的な演出でも「***を想起させる」などと条例を恣意的に拡大解釈されれば、トンでもない規制を被る可能性が否定できません。こういうものを私は「しゃらくさい」「冗談ではない」と思います。


コンテンツの「グローバル安全基準」と「表現の自由


 ここで同時に強調しておきたいのですが、私は、何が何でも「表現の自由」と叫ぶことの愚かしさも指摘しておきたいのです。かつてテレビのアニメーション番組「ポケットモンスターポケモン)」に登場するキャラクター「ピカチュウ」がピカピカと点滅して、それを視聴していた多数の子供に「光過敏性発作」の症状が出た、という事件がありました。
 このとき、旧郵政省の審議会で、議長と副議長を務めたという人たちと酒を飲んだことがあります。この審議会は、結局、何ひとつ有効な予防策を出すことなく終わったのですが、この人たちは「表現の自由を守った」と酒の席で鼻高々だったんですね。なんて言うバカだろう、と呆れ返って言葉が出ませんでした。
 今、こういう条件で、こんな風な光の点滅をテレビ放送したら、これくらいの確率で、必ず病状が発生する、と分かっている時「表現の自由」? この人たちが本来やるべきだったことは、何らかの「法的禁止事項」を作ることではなく、再発防止のために、科学的な背景を持った「安全ガイドライン」などを確立することだったはずです。そういう努力をいっさい放棄して、雑談のような審議会の結論が「表現の自由」・・・開いた口が塞がりませんでした。
 前回の記事で、私があえて音声科学の例を挙げたのは、この辺りのことが念頭にあったからです。何も「科学的な判断基準」が万能だなどと言いたいわけではありません。先日明らかになった「足利事件」の冤罪のように、DNA(遺伝子)鑑定だってミスを避けることができません。しかし「DNA鑑定」という方法論が存在しているのと、何もなく闇雲に「有罪だ」「いや無罪だ」と水掛け論を繰り返すのとでは、天と地ほどの違いがあります。
 私は上の“アホな”「審議会」の実態を知って以降、この10数年、世界最大のアニメやゲーム輸出国、日本が率先して、こうしたデジタルコンテンツのグローバル安全基準の確立に務めるべきではないか、とあちこちで働きかけてきました。2002年から数年間はシャープなどが音頭を取った「3Dコンソーシアム」の立ち上げにも参加して、研究室として3Dモニターの安全基準評価といった仕事に関わったこともあります。
 利用者誰もが等しく影響を受ける可能性がある「安全基準」のようなものを、法で縛られるのではなく、また業界が闇雲に自粛するのでもなく、はたまた海外の基準(例えばISO=国際標準化機構=の取り決め)を徒手して待つのでもなく、業態に関わる人たちが率先して集まり、建設的に取り決めて積極的に日本から発信し、国境を越えて安全な稼働状況を確保する。そういうことに、意味があると考えています。
 改めて言うまでもないですが、マンガ・コミックスにも、写真にも文書にも、ネット上の音声動画にも、犯罪的なものは存在し得ますし、そうしたものは規制しなければならないでしょう。プライバシーを侵害するビデオ、霊感商法のマインドコントロール・マンガ、悪質に差別的な文書・・・何でも野方図でいいなどと言うつもりは毛頭ありません。私たち芸術家、表現者は、法によるのではなく自律的な表現の軸を持っています。今日のような社会では、同様のことが社会の多くの人に求められるようになっている。そのことをまず、きちんと指摘しておきましょう。
 さらに、いったい何が規制の対象になるのかが明示されねばなりません。恣意的な判断の専横を決して許さず、しかも、懸念される犯罪的な事態を回避するには、どうすればよいのか? 闇雲な「表現の自由」も愚かしいし、無分別な思想統制のような法や条例も問題以前。方法的、客観的な妥当性を持った社会のルールこそが求められるのであって、拙速に書きなぐられた、恣意的解釈の余地だらけの文案は、「詳細な再検討を」と差し戻すのがふさわしいものと見ています。


知見がなくても条例が出せるとは、知らなかった!


 ちょうど原稿のこの部分を打っている間、議事が進行していた都議会では「東京都が率先して児童ポルノ法の成立を目指す」であるとか、「科学的、論理的な知見があっての条例か?」という問いに対して「知見はないが、青少年は守らねばならない」とか、もうしっちゃかめっちゃかな状況がTwitterで生中継されていました。「知見がなくても条例が出せるのか! 知らなかった。無知見だった」と思わず僕のTwitterでつぶやいてしまいました。
 児童ポルノの「単純所持」から禁止、というのは、ある意味グローバル・スタンダードに近いものでもあります(「宮沢りえサンタフェ>は児童ポルノか?」参照)。個人的には、死刑問題など(選挙の集票に結びつくので)で頑としてグローバル・スタンダードと無関係のものもあれば、今回の条例のように(やはり、プロパガンダによっては選挙の集票に結びつき得ることから)意外なところでグローバル・スタンダードに近いものまで、日本のマツリゴト全般が実に低空飛行で推移していることに、何とも言えない思いを持たざるを得ません。
 ひとまず、条例は継続審議となりましたが、巷の噂では、次の「コミケ」で、かなりの数の『太陽の季節』のエロ・コミック化作品が出回るだろう、との予測(当然ながら石原原作者に著作権料は払わないでしょう)。ことによると、焚書坑儒のような現象が見られることになってしまうかもしれません。よくよく注意しながら、関連の推移を見守りたいと思います。

(つづく)