〇・五五秒のジェンダーフリー

 私たちは、この〇・五五秒遅れを「現在」と考えているわけですね。いま思いついたと。実際は殺してやりたいと思っていても、「まあ、待てよ」ということなんです。これでわれわれはなんとか日々を過ごしている。実際は考え直していても、それを反省とは思わないのです。ところが、アルコールとか麻薬とかその場の雰囲気とかで、これが鈍ってくる。やりとりしているうちに過熱してくるとか。
 アメリカのわりと最近の実験では、黒人の絵を白人に見せると、偏見がむき出しに出るのだそうです(具体的にどんな実験だかわかりませんが)。しかし〇・五五秒遅れでそれを修正する。〇・五五秒ですよ。私たちは意識しませんが、「やはり黒人に対する偏見はまずい」ということで、〇・五五秒遅れで抑えたのを「現在」と思っている。
 この「待て」がしっかりしているかどうか。これを「良心」といっていいかもしれません。「意識」と「良心」はヨーロッパで生まれた観念で、あちらではもともと同じ言葉なんですね。私は長いあいだふしぎに思っていましたが。
 差別意識そのものをすっかり消せというのは無理難題です。そこまで努力しようとする必要はありません。第一、不可能です。私たちは二〇ビットほどの「意識的自己」の内容を、多少のことでは揺るがぬほどしっかりするように努力すればいいのです。
 「聖職者」といわれる人がいいトシをして痴漢とか万引で余生を棒に振りますね。ひとごとではありません(中井久夫『こんなとき私はどうしてきたか』医学書院、2007年、pp.79-80)。


*女性やセクシュアル・マイノリティに対する差別意識をすっかり消せというのも、少なくとも近未来には不可能でしょう。私たちにできることは、「〇・五五秒の良心」にジェンダー・フリーを叩き込むことではないでしょうか。