名前のない信仰

 命令されてでもなく、無鉄砲さからでもなく、あさましい動機にもよらず、危険をともなう義務に人間を押しやるものはなにか。それは現状を正しく把握し、自分がとるべき行動を決定し、実行しなければ、人間としての誇りと責任をまっとうできないと感じる意識である。人によっては「良心」または「理性」と呼ぶ意識を、ヴェーユは「神から発せられる直接的で個別的な命令」と呼ぶ。しかも、この責任を認識する能力は、知性が明晰であるほど増大する。
 こうした発想に三〇年代という時代の刻印を読みとることができるが、同時に、「無名のキリスト者」(洗礼をうけて教会に属しているわけではないが、現実にキリストの教えを守って生きている「無神論者」をさす)、「名前のない信仰」(自分でも意識していない信仰)といった、きわめてヴェーユ的な考えを認めることもできる。「知識人」と「信仰者」はヴェーユにとって同義語であり、ともに時代の不幸を真正面から見すえる者、真理を追い求める者、勇気ある決断をおこなう者を意味していたのである(冨原眞弓『ヴェーユー人と思想ー』清水書院、1992年、pp.184-185)。


シモーヌ・ヴェイユ(1909-1933)の、「名前のない信仰」というこの概念は、現代宗教を理解する上でも役に立ちそうです。