「特攻志願」と生存者罪悪感

 前に出る練習生の靴音が聞える。前で、左で、背後で、右で。二人、三人、五人・・・・・・。靴音は脅迫的にひびく。だが、まだ全員はない。
 出なければ、出なければ。死ぬために来たのに、何を躊躇っているのか。
 腋の下を冷たい汗が流れ続けた。手もぐっしょり汗を握った。
 両親や兄弟のことを思った。飛行機にも乗らずに死ねるものか。おれが行かなくても、幾らでもその要員は集まる。逃げるんじゃない。おれは飽くまで空で死ぬんだ・・・・・・。
 苦しかった。頭が燃えて来る。そっと薄目を開けた。その視野にすぐ左から黒く大きな人影が出た。小手川であった。小手川が行くというのに。塩月の足がふるえた。
「ようし、待て」
 老大佐は台上から消え、大尉が号令した。
「そのまま動くな。全員、目は閉じておれ」
 士官たちが、各分隊に散ってくる。志願者の名前控えが始まる。
 決まったと思った。ほっとしたが、その安堵がたちまち悔いに染められて来る。ありもしない飛行機、その飛行機のせいにして、死を逃げたのではないか。何故、身を投げなかったか、一歩前へ出なかったのか。いまから一歩出てはいけないのか―。
 塩月は、歯を噛み合わせ、眼を強くつむった。みんな、しっかり瞑目していてくれ。
 その日、昼過ぎまで、練習生分隊はひっそりしていた。練習生同士、胸の中を探り合うというより、夫々の決意を静かに反芻していた。前に出るのも出ないのも、余りにも大きな決意であった。一歩の前と後の間には、眼もくらむばかりの底深い谷があった。
 遅かれ早かれ、いずれ死ぬ―という慰めに似た思いが、その谷を煙らせてくれる筈であったが、それにしても、傷口は生々し過ぎた。此方の岸と向うの岸。練習生たちはまだ茫然と断崖に立ち尽くし、眼の下の谷の深みに気を呑まれていた(城山三郎『一歩の距離―小説予科練』角川文庫、2001年(初出1968年)、pp.94-95)。


 こうして最初の「特攻志願」をしなかったこの小説の登場人物・塩月は、心理的負い目から、二回目の「特攻志願」には応じます。


 隣の大津空から十五機の水偵が一時に消えてしまったのは、滋賀空の塩月たちにまた一つの衝撃となった。下駄ばきのまま特攻機として突入して行くのだという。壮烈だと思った。口惜しまぎれだが、下駄ばきと蔑んだことに気が咎めた。上尾は行ったかどうか。黙ってやることはやっていく性格だし、命がけで庇うほど九四水偵が好きであった。恐らく、行ったであろう。
 塩月は暗然とした。親友という親友においてきぼりをくった気がした。おれだけ生き残っているというひそかな喜びより、死に遅れたという焦りや後ろめたさが、ますます強まった。
 それだけに、十日ほどして、十五機の水偵が舞い戻って来たのを見た時には、喜色を隠せなかった。「よかった、そんなに慌てるな」と声に出さずつぶやく(同上、p178)。


 「親友という親友においてきぼりをくった気がした」「死に遅れたという焦りや後ろめたさ」という心理―「生存者罪悪感(survivor's guilt)」が、「特攻志願」の背景にあったことも少なくなかったのでしょう。ここでいう「親友」同士の「連帯感(運命共同体感覚)」を
ホモソーシャル」(男性間の非・性的な絆)と形容することに無理はないでしょう。