上野千鶴子氏への内田樹氏の批判について

http://president.jp/articles/-/8536?page=2 より転載
「おひとりさま」は最期まで幸せといえるか


人類史上例外的な「幼児のままでいい社会」


 だから、消費社会が「家族は解体されねばならない」と宣言したのは当然のことだった。夫も妻も子どもたちも、かつてにこやかに「ちゃぶ台」を囲んでいた全員が、自分に強制されていた「夫らしさ」や「妻らしさ」や「子どもらしさ」のイデオロギー性に気づき、それぞれの「自分らしさ」を求めて、家族を離れてゆく……という物語を私たちはそれこそ吐き気がするほど服用させられた。消費社会の始まった80年代は、映画もドラマも小説もCMも「そんな話」で埋め尽くされていた。
 学術の世界も例外ではない。フェミニズム家族論と、「アダルト・チルドレン」論は消費社会にジャストフィットする社会理論であった。というのは、どちらも実践的な結論は「家族と一緒に暮らすのは心身の健康によくない」というものだったからである。カウンセラーや社会学者に悪意があったと私は思わない。たぶん彼ら彼女らは個人的経験を踏まえて、善意からそう主張したのであろう。
 けれども、人間は何かにすがりつかなければ生きていけない。家族解体によって、家族たちを扶養したり配慮したりする義務から解放されると同時に、家族から信頼され負託される機会を失った人々は、社会的承認を別のかたちで求めるようになった。あるものは「自分らしさ」の限界をめざす蕩尽的な消費に嗜癖し、あるものは「自分探し」の終わりなき旅に出かけ、あるものは族長や預言者や導師のような「新しい家父長」にすがりついた。
 そうこうしているうちに、「例外的に豊かで安全であった日本社会」は「それほど豊かでも安全でもない社会」になった。そして「やはり家族がいないと生きにくい」ということを言い出す若者たちが出現してきた。別に何が変わったわけでもない。「ひとりで生きるのがむずかしい時代」になっただけのことである。
 「ひとりで生きられる社会」は、繰り返し言うように、人類史上例外的な達成である。そのこと自体は言祝(ことほ)ぐべきことである。けれども、そのような幸運は長くは続かない。というのは、例外的に豊かで安全な社会では、市民的成熟の機会が失われるからである。
 「ひとりでも生きられる社会」とは、言い換えれば、他者との共生能力を欠いたものでも、対立者とのネゴシエーションや、利害のすり合わせができないものでも、つまりは“幼児のままでも”生きていける社会のことである。幼児のままでも生きていける社会では市民的成熟は動機づけられない。成熟した市民が安定的に供給されなければ、システムの補正やメンテナンスを黙々と担う人間がやがていなくなる。
 システムというのは「ちゃぶ台」のようなものである。誰かが外部から食物を持ち込み、誰かが調理し、誰かが配膳し、誰かが片づけるから「ちゃぶ台」は機能する。「飯はまだか」とか「オレはこんなもの喰わんぞ」とか自己都合を言い立てるものだけがいて、資源の搬入や調理や後片付けをする人間がいなくなれば、「ちゃぶ台」は遠からず腐臭を発するカオスに変じる。同じように、自己利益の追求には熱心だが、公共の福利のために配慮することにはさっぱり気が進まないという人間がマジョリティを占めるようになれば、社会はもう以前ほど豊かでも安全でもないものになる。現に、なった。私たちはもう一度、他人に迷惑をかけたり、かけられたりして共同的に暮らすノウハウを身につけ直さなければならなくなった。
 そこでめざされる「他者との共生」がかつてのような家族の復活であるのか、あるいは別のかたちの共同体モデルになるのか、確定的な見通しは私にはない。
 家族に代わる「親密圏」を唱える人たちの中には、「強者連合」を理想とする人たちがいる。高い社会的地位をもち、安定した収入があり、趣味がよく、知的会話が楽しめるような人たちだけが集まって、愉快に暮らす共同体モデルを提唱した社会学者がいた。だが、その共同体のメンバーのひとりが失職したり、財産を失ったり、病気になったり、変な宗教にはまったら、どうなるのか。人々はその人がとどまることを望まないだろう。
 家族というのは、逆にそのような「困った人」を受け容れ、扶養し、支援することをこそ主務とする制度である。私たちは誰でもかつては幼児であり、必ず老人となり、しばしば病人となる。個人の社会的能力がもっとも低いときを基準にとり、そのときでも共同体のフルメンバーとして愉快に過ごせ、自尊感情を維持できるように共同体は制度設計されなければならない。その点から言えば、さしあたり近代家族に代替しうるシステムを私は思いつかないのである。


*「おひとりさま」でなければ「近代家族」を復活させるしかないという内田氏の発想は、私には理解できかねます。