未来の他者との連帯

 社会学者の大澤真幸は、見田宗介との共著『二千年紀の社会と思想』(太田出版、2012年)で、原発問題を論じて、「未来の他者との連帯」は「現在のわれわれにとって義務」なのか、と問い、ハイデガーの弟子ハンス・ヨナスの責任論を、「怪しげな領域に入って」いるとし、次のように批判しています。


 だが、自然存在そのものに目的がある、という前提は、とうてい普遍的な妥当性をもちえない。(中略)自然存在にも最初から目的があると見なすことができるのは、造物主の存在を想定する場合のみである。だが、造物主の存在という強い仮定に依存する倫理が普遍的な説得力をもつことは不可能だ(大澤真幸「未来は幽霊のように」同上、p236)。


 しかし、「宗教」を「怪しげな領域」と位置づけ、「宗教」抜きに原発問題のような公共問題を論じようとする大澤氏のスタンスのほうが間違っているのではないでしょうか?