有村治子議員と靖国神社

https://www.facebook.com/#!/groups/135185106623558/permalink/454542251354507/ より転載
「ウルトラ右翼 -- 靖国参拝する安倍改造内閣の女性閣僚たち」


新設の女性活躍担当相という意味不明のポストに抜擢された有村治子議員は、黒住教・真如園の支援を受け、2013年の選挙では、神道政治連盟仏所護念会教団・崇教真光黒住教天台宗世界救世教・主之光教団からの支援を受けた。


http://prayforjp.exblog.jp/19479123/


また、有村治子議員は、以下の警固神社のサイトに、「靖国に想うこと」という以下のような文章を寄稿している。


◆ 戦歿者の御霊の前で


「東京では靖國神社、地方にいれば護国神社に参拝」という家庭に育った私は、国難に際し命を捧げられた戦歿者の御霊に対して、ごく自然に崇敬の想い を抱いてきました。しかし、その想いが劇的に増しだのは、今から十一年前の平成十三年春、比例代表(全国区)での参議院選挙出馬を自民党本部から打診して 頂き、準備に駆け回っていた時にある出来事を経験したことによります。当時の内閣支持率は八%、自民党というだけで、どこへ行っても針のむしろでした。国 政選挙での戦いなど全く経験のない、被選挙権を得たばかりの三十歳の私は、資金や組織面、目程的にも選挙の準備が追いつかず、あまりのプレッシャーに、押 しつぶされそうになっていました。
あと二ヶ月で選挙戦に突入という夕暮れ、誰もいなくなった選挙事務所でトイレ掃除をしていた私の手を引いて、主人が連れて行ってくれたのが靖國神社 でした。途方に暮れて肩を落とし、うなだれて靖國の表参道を歩く私の前で、主人の言葉が淡々と流れます。「僕達はね、たとえこの選挙に結果が出せなくても、路頭に迷うのは、あなたと僕と二人だけでしよ。でもここにいらっしゃる英霊は、自分がやられたら、自分の命ばかりか、愛する両親、奥さんや子供、奥さ んのお腹の中にいる、まだ顔さえ見たことのない赤ちゃんの命まで危険にさらさなきやいけない、そんなプレッシャーの中で、魂を奮い立たせて、第一線に赴か れたんだよ。この選挙、たとえ勝てなくっても、『お前は世間を騒がせた』つて、打ち首にされることもない、さらし首になることもない。かつての戦いであれ ば、勝者になれなかった勢力は一族もろとも、命を差し出さればならなかった。今でもそんな体制が世界で少なくない中、負けた者でも生き長らえさせてもらえ るのが、民主主義なんだよね。こういう時代に生きていることがどんなに有り難いことか。そんな平和な時代を夢にまで見て、文字通りその礎となられた方々 が、ここにいらっしゃるんでしょ。勝っても負けても、命だけは取られることはない。志を高く掲げて、この選挙最後まで歯を食いしばって、にこやかに戦い抜 こうよ、ね」
目に力の入った笑顔で、私を励まそうと必死になっている主人に、正直なところ当時の私は反応する力もなく、目をのぞき込むのが精一杯でした。当時、 結婚して三年目でしたが、実は私の主人は、大陸からマレーシアに渡って四代となる華人です。マレーシアに生まれ育った主人の祖父は、父方・母方の二人と も、「華僑経済人」という理由で、先の大戦中に日本軍に連行され、そのまま帰らぬ人になりました。当時の日本軍としては恐らく、東南アジアに広がる華僑 ネットワークが戦費や情報を大陸に送ることをおそれ、これを断つ目的があったのでしょう。マレーシアでパイナップル缶詰工場を営んでいた一族は、戦争に よって大黒柱を亡くし、事業を失い、その後、経済的には没落の一途をたどっていくことになりました。
主人は、日本と交戦した、いわば相手側の戦歿者遺族、ということになります。婚約時代に、このことを知らされた私は、以後、近現代史についての歴史 観が全く異なるであろう主人の気持ちを慮るようになり、靖國神社について話し合うことを、何となく遠慮してきました。しかし、それが全くの杞憂であること が、私の選挙で初めて分かったのです。怒鳴られても怪文書を出されても、途方に暮れる暇もなく、早朝から深夜まで全国を移動し、明るく振る舞い続けようと あくまで前向きな私でしたが、連日のあまりに強い衝撃に、次第に充分な食事や睡眠がとれなくなっていました。どんなに慰め励ましても、本番の選挙戦を前に 追い詰められ、やせ細っていく妻の姿を見るに見かねた主人は、私を励まそうと最後の望みをかけて、靖國神社に私を連れ出したのです。祖父を日本軍によって 二人とも亡くしている主人が、誰もいない夕暮れに、心して靖國に連れて行ってくれた。この時の「靖國参拝」以来、主人と私は、修羅場を共に生き抜く戦友 になったと感じています。


◆「祈りの靖國」、イデオロギーにあらず


自民党選挙対策本部をはじめ、誰からも「泡沫候補」の烙印を押されていた私ですが、それでも四十七都道府県それぞれの地域に、「ありむら」と書いて 下さる方がいらっしゃり、大方の予想に反して、比例全国区の下から二番目で当選することができました。十一年前、無謀にも一人の主婦として、全国区でたす きをかけ、文字通り知名度ゼロから出発した私の「可能性を買って」下さった民意を、心して胸に刻み込んでいます。
私は昭和四十五年生まれ、日本教職員組合日教組)が学校現場で、強い影響力を持っていた時代に教育を受けた「戦後派世代」です。民主主義は、私が 生まれた時から空気の如く存在していたかのような認識でおりました。しかし、自らの可能性はもちろん、人の心も信じられず、極限まで追いつめられる選挙を 経験して、「ああ、民主主義って、なんと尊く有り難いものだろう。どれだけ多くの方々の想いと犠牲があって、平和が創られていることか…」と、ほとばしるような感慨と、感激の想いをもって、靖國・平和・民主主義をいつくしむようになりました。そして、この事実を痛感するに至った靖國に対する想いを、「普通 に育った戦後派世代」として、選挙区である全国どこに行っても、講演で申し上げるようになりました。右・左のイデオロギー論争に絡めて靖國のことを論じる のではなく、若手政治家として、選挙を通して実感した御霊に対する想いを自らの言葉でお伝えする時、世代や地域・個々の宗教宗派を超えて、一定の説得力を 持ち得ることも、確信するようになりました。


◆「国家に忠誠を誓う」ための国籍志願


当選後四年経って、主人が切り出しました。「僕はマレーシア人として、また一族を担う長男として、祖国マレーシアに誇りを持っているし、これからも その気持ちに変わりはない。高校を卒業して日本に留学して以来、定食屋の皿洗いから始めた私が日本で受けた差別や経済的ハンディも決して少なくはなかった けど、今や日本在住も二十年を迎え、日本に住むマレーシア人として国籍による不自由はなく、何とか生きていく自信もある。でもひとたび、配偶者であるあなたが日本の国家機密と向き合う国会議員になった以上は、やはり私が日本の国籍を取り、国家に忠誠を誓って皆さんに安心していただくことも大事なことだと思う」。
初めての選挙で、候補者となった妻に対し、誰よりも先に信任を出したいはずの夫にもかかわらず、日本国籍を持っていなかったばかりに投票できなかった配偶者としての想いと、国益を軸として各国の思惑が錯綜する国際社会の中で、一定の情報を持ち、国家の意思決定に携わる者を隣で見てきた人間ゆえ、「自分が信頼に足る日本国民であること」の重要性を痛感してきたのでしょう。
主人にとって、日本国籍を志願し日本に帰化するということは、好むと好まざるとに関わらず、法律上白動的に、自らを育んだマレーシアの国籍を離脱することになります。年老いた両親や親族全てをマレーシアに残しながらも、以前から日本に骨を埋める覚悟をしていた主人ですが、その想いを目に見える形で実行し、平成十八年、日本人となりました。主人の主体的な判断とはいえ、熟慮の上相当な決断をしたその想いが伝わってきます。家長として神棚を整え、天を仰 いで朝晩柏手を打つ主人の日本に対する愛着と忠誠を感じ取るたびに、国家国民益に奉じる議会人としての職責の重みに、気持ちを新たにします。


◆「母の銅像」に勇気を頂いて


現在私には、八歳と二歳の子供がいます。母親とは、命を生み届け、次世代を育て上げる役割を直感的・本能的に学び取っていくものだと思います。しか し、「仕事と家庭の両立」などという美しい言葉では片付かない、ジェットコースターに乗っているかのような慌ただしい毎日を重ねていると、(今格闘している全国のお母さん達と同様)時に気の遠くなるような子育てに手を焼き、率直なところ、途方に暮れることもあります。
そんな時私は静かに靖國神社に向かい、遊就館近くの境内に立つ「母」銅像の傍らに身を置きます。長女であろうあどけない女の子が右足に寄り添い、 左手は小さな男の子の手を引き、腕には乳飲み子を抱いている着物姿の母親の像です。母の視線からは、夫が生きた証として遺した児を立派に育て上げることが、国家と御霊の尊厳を守ることと自らに言い聞かせ、困難に立ち向かおうとする毅然とした姿勢がにじみ出ています。そこには、夫を戦地に送り、戦中戦後の 混乱の中で家を守り、女手一つで子を育てる、凛とした日本の母親の姿があります。
この銅像と向かい合うたび、私は時が経つのも忘れるほどの衝撃を受けて、ただただ心を添えるのですが、厳然たる事実として、このような遺された身としての「日本のお母さん」が、全国至る所でご苦労されてこられたことを思うと、本当に胸が痛み、政治の使命とは究極的に、何を守ることだろうかと想いを巡 らせます。


◆ 歴史に向き合い未来につなぐ


愛する家族や故郷、日本に想いを馳せて、遥か遠くの戦地で命を捧げられた方々や、一家の大黒柱を失い、戦後乳飲み子を抱えて食いつないでこられたご 婦人、お父さんの面影を知らずに寂しい思いをされて育ったご遺族の何とも言いようのない空しさ悔しさについて、平和な時代に生を受けた私達が、その思いを 的確に共有することは困難なことです。しかし、美化もせず卑下もせず、歴史に謙虚に向き合い、ご遺族のご苦心や戦争の教訓を受け継いでいくことは、日本の 未来に向けて確かな選択を重ね、私達民族の生存可能性を少しでも高めていくための、大事な仕事だと私は思っています。
終戦から七十年近くの歳月を経て、今や国民の約八割が戦後派世代となりました。戦争を知らない私達、団塊ジュニアの世代にも、歴史を伝えるその役割が移ってきていることを痛感しています。


▼ 女性入閣者が多いと一見平和的イメージがあるが、それは安倍首相が極端な保守色を隠すために「女と申す者誰も戦争ぎらひに候」(与謝野晶子)という一般通念を利用しているだけで、有村治子議員が「ほとばしるような感慨と、感激の想いをもって、靖國・平和・民主主義をいつくしむ」などと意味不明のうわごとを述べているように、入閣女性議員は、比較的穏健な小渕優子議員を除けば、極めつけの「ウルトラ右翼」(「日刊ゲンダイ」9月4日付)であることを忘れるべきではないだろう。


*「比較的穏健な小渕優子議員」が経産相に起用された大きな理由も、原発再稼働に向けて、懸念する人の多い「母親たち」を説得したいということでしょう。やれやれ。