アディクションとしての自傷

星和書店 こころのマガジン』vol.118 より転載
アディクションとしての自傷
―心の痛みに対する「鎮痛薬」にして、「死への迂回路」―


松本俊彦
独立行政法人国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所
自殺予防総合対策センター/薬物依存研究部


いまを生き延びるための「鎮痛薬」


 リストカットなどの自傷行為は、通常、激しい怒りや不安、緊張、気分の落ち込みといったつらい感情を緩和するために行われます。その意味では、「死ぬこと」を目的とする自殺企図とは区別される行動といえます。
 典型的な自傷行為は、一人きりの状況で行われ、周囲の誰にも告白されません。したがって、自傷行為は、援助者がしばしば誤解しているような、「人の気を引くためのアピール的行動」とは本質的に異なり、むしろ孤独な対処方法と理解するべきです。それは、誰に助けを求めることも誰かに相談することもなく、自分ひとりで苦痛を解決しようとする行動であって、その根底には人間不信があります。
 また、自傷行為は、身体に痛みを加えることで心の痛みを封印する方法でもあります。自傷を繰り返す若者のなかには、「もう何年も涙を流したことがない」「すごく悲しいときにも自分だけ涙が出ない」と語る人が珍しくありません。
 自傷行為は簡便で即効的な対処方法です。たとえば、侮辱されたり無視されたりすることによる苦痛に対しては、直接、加害者に対して、「そういう態度はやめてほしい」と改善を求めるのが建設的かつ根本的な解決策といえますが、反面、この方法は、相手が圧倒的に強い存在であったり、改善を求めるとかえって事態が悪化することが危惧されたりする場合には、リスクの高い方法です。そのような場合、自傷行為をすることによって、ある種の人たちはすみやかに苦痛を感じている意識状態を変容させることができるのです。事実、ある研究は、自傷を繰り返す者の場合、自傷直後には血液中の脳内麻薬様物質の濃度が上昇していることを明らかにしています。つまり、自傷行為には、耐え難い心の痛みに対する「鎮痛薬」としての効果があるわけです。


「死への迂回路」としてのアディクション


 このように自傷行為は、少なくとも短期的には自殺とは明確に異なる行為であり、少なくとも一時的には「心の痛み」を緩和する効果があります。
 それでは、「自傷したい奴はすればいい」と放っておけばよいのでしょうか?
 もちろん、そうではありません。なぜなら、自傷行為には二つの深刻な問題があるからです。一つは、結局のところそれは一時しのぎにすぎず、困難に対する根本的、建設的な解決がなされなければ、長期間には事態の困難さはむしろ深刻化してしまうという点です。もう一つは、自傷行為は、繰り返されるうちに麻薬と同じく耐性を獲得し、それに伴ってエスカレートしてしまいやすいという点です。そして、この耐性獲得の結果、当初と同じ程度の「鎮痛効果」を得るために、自傷の頻度や強度を高めざるを得なくなってしまうのです。自傷行為が習慣化してしまった者の多くが、「切ってもつらいが、切らなきゃなおつらい」という事態に到達しています。この状態はまさしく「アディクション」といってよい様相を呈しています。しかも、すでに述べたように、本人を取り巻く現実は長期的にはいっそう過酷なものとなっています。実際、この段階では、多くの者が、「消えたい」、「いなくなりたい」、「死にたい」という考えにとらわれるようになります。
 要するに、自傷行為というアディクションは、つらい瞬間を生き延びるための「鎮痛薬」として繰り返されながら、長期的には、むしろ逆説的に死をたぐり寄せてしまうという意味で、「死への迂回路」といえる行動なのです。実際、10代においてリストカットや過量服薬といった、致死性の低い自傷行為の経験者は、そうでない者に比べて10年後の自殺既遂によって死亡するリスクが数百倍高くなるといわれています。つまり、たとえ「リストカットじゃ死なない」といえたとしても、「リストカットをする奴は死なない」とはいえないのです。


自傷行為の援助


 それでは、援助者は自傷行為に対してどのような態度で向き合えばよいでしょうか?
 まず、もしも若者が自傷行為のことを告白した場合には、「正直に話してくれてありがとう」という言葉をかけて、彼らの援助希求行動を支持し、強化してあげましょう。
 もしも自傷した傷の手当てを求めてきたのであれば、「よく来たね」といってあげてほしいと思います。というのも、自傷行為とは、単に自分の身体を傷つけることだけを指すのではなく、自傷後に傷の手当てをしないことを含めた概念だからです。実際、自傷後に医療機関で傷の手当てを受けない者ほど、自己嫌悪感や自殺念慮が強いことが知られています。したがって、傷の手当てを求めてきたということは、まだ「自分を大事にしたい」という気持ちがあることを意味します。なかには、「切っちゃった」などと傷の手当てを求める若者の軽佻な態度に腹立たしさを感じる援助者もいます。しかし、彼らがケロッとしているのは、自傷行為によって苦痛を軽減した直後だからであって、周囲の反応を楽しんでいるわけではないのです。
 それから、頭ごなしに自傷を禁止しないほしいですし、若者と「自傷は是か非か」といった議論をするのも避けるべきです。また、「自分はちゃんと自傷をコントロールできている」と、依存症患者さながらの否認を呈する若者と出会うこともありますが、彼らの否認や抵抗と戦うのも好ましいこととはいえません。なぜなら、自傷行為に深刻なまでに依存する者ほど、「自傷行為をやめたら自分をコントロールできなくなって、発狂するのではないか?」という不安は相当に強烈だからです。
 まとめておきましょう。自傷行為の援助とは、「問題行動」をやめさせることではなく、背後にある「苦痛」を見極め、それを軽減することにあります。そして最終的には、こうした援助プロセスを通じて、「世の中には信頼できる人もいて、つらいときには助けを求めてもいい」、あるいは、「人生において一番つらいことは、ひどい目に遭うことではなく、一人で苦しむことである」といったことを知ってもらうことが目標となります。そのような認識をもったうえでの患者(もしくはクライエント)との協働作業こそが、自分を傷つける若者たちの将来における自殺を予防するのだと信じています。
 こうした私の考えは、自身の臨床経験、さらには自分の経験を、自分なりの方法による研究で確認してきた知見にもとづいています。そうした研究知見をまとめた論文集が、2010年に星和書店から刊行した『アディクションとしての自傷』です。よろしければ一読してみてください。