心理療法の再宗教化のために

 心理学科の学生を対象とした宗教心理学演習というゼミを担当しており、毎年三木善彦さんの「内観療法入門ー日本的自己探求の世界」(創元社、1976年)を輪読しています。つくづく思うのは、内観療法(内観法)は、やはり基本的には浄土真宗の修行法であり、アメリカの12 Steps Spiritualityと同様に、「心理療法の顔をした宗教」だということです。内観療法(内観法)の創始者である浄土真宗の篤信者であった吉本伊信さん(1916-1988)は、内観療法(内観法)を、「(罪深いものを救う阿弥陀仏を)信じていた方がいいのですが、信じていない人でも一定の効果はあります。」と位置づけていたそうです(三木善彦さんのご教示による)。
 「他者の愛/自己の罪」を凝視させる内観療法(内観法)は、確かに「罪深いものこそ救われる」という宗教的世界観に後押しされなければ、実践はなかなか困難でしょう。また、吉本伊信さんの運営していた内観道場では、指導者と内観者の「面接」の際には、両者の間で必ず「合掌と礼」が交わされていました。これは「仏ー仏性(または神ー神性)」という「宗教的世界観」(近代合理主義を超えた、レヴィ=ブリュルのいう「融即律」の世界)を構築するための「宗教的儀礼」でもあったのだと思います。こうした宗教的世界観と「自分には仏性(または神性)が内在している」という確固たる信念が背後になければ、「他者の愛/自己の罪」を凝視する内観療法(内観法)は、ただの「自分苛め」になりかねません。
 近年、リストカットアームカットオーバードーズなどを行い「故意に自分の健康を害する」若者たち(松本俊彦「自傷行為の理解と援助」日本評論社、2009年)が社会問題となっています。この問題も、「宗教的世界観」なしでは根本的な解決は難しいように思います。「自分の身体は自分のもの」という合理的な「自己決定」の論理だけでは、こうした若者たちが「誰にも迷惑をかけていない」と反論してきた場合、説得するのは困難でしょう。やはり、こうした若者たちを治療するためには、「からだは(熊田註;神様からの)かりもの、心ひとつだけがわがもの」(天理教)といった宗教的世界観が不可欠だと思います。
 21世紀初頭の先進諸国では、「心理療法の再宗教化」が切実に要求されているのではないでしょうか。以前援助交際に走る少女たちが社会問題になったときに、上野千鶴子さんのような世俗主義の立場に立つフェミニストは「少女たちの『自己決定』を尊重しましょう」という論陣を張りましたが、日本の宗教界は「(神様からの)かりものを(売春という形で)『また貸し』してはいけない」という反論はしなかったと思います。近年の「故意に自分の健康を害する」症候群(松本俊彦)に対する対応策についても、日本の宗教界は今のところ積極的な提言をしていないと思います。そろそろ、こうした社会問題をめぐる公共討議に、日本の宗教界も参加すべきときではないでしょうか。