語る記憶

 大月康義『語る記憶ー解離と語りの文化精神医学ー』(金剛出版、2011年)を読了。好著です。


ーカルロ・ギンズブルグは「われわれが神話を考えているのか、あるいは神話がわれわれを考えているのか」という挑戦的な問いを発している(「精神科臨床とバフチンの思想」、同上、p174)。


ー解離そして/あるいはトランスを生み出す場の構造という観点からみるとき、邪病も憑依も多重人格も同じ構造をもつことが浮き彫りになる。解離という記憶の統御を失った状態を介するとき、症状から病因についてのストーリーが創りだされるのではなく、逆にそのストーリーから症状が産みだされる。ストーリーと症状が相互に生成される場のなかで、真の病因についてのストーリーを求めるには、そのストーリーの起源を遡り、ストーリーを脱構築し、ストーリーを脱神話化しなければならない(「記憶・文化・多重人格」、同上、p269)。


ーベアードにより心労過労による抑うつ状態や多彩な神経症状を惹起する精神症候として神経衰弱と名づけられたものは二〇世紀初頭欧米や日本で急速な広がりをみせた。ジャネは心労過労により精神衰弱、心理的緊張の減弱が引き起こされ神経症となり、ジャネの言う意味合いでの神経症においては被暗示性が昂まり言説の支配を容易に受けるようになるとしている。そのとき世間に神経衰弱に対する肯定的な言説が流布しているならばそれはたちまち広まっていく。神経衰弱、現代でいうところのストレス性うつ病の爆発的な広がりはこのように説明できる。最近、樽味のディスチミア親和型うつ病においてその病因として若者の弱力的性格が挙げられるようになり、また、現代型うつ病といわれるストレス性うつ病圏内のものが職場では強い症状が出るため出勤できなくなるが家庭では全く普通に生活できるということから、あまりにも恣意的であるとして否定的に捉えられてきていることなどから、ストレス性うつ病もまたこのような否定的言説により減少していくことが予想される(「現代におけるうつ病の急増とジャネの神経症論」、同上;pp.299-300)。


ー世界には神謡を持つ民族と持たない民族があると金田一は言っている。神謡があるということとシャーマニズムと精霊信仰とイムのように解離状態へ入る技法をもつということはすべて一体のことではないか。日本や欧米に神謡は存在しない。同時に巫術、呪術、精霊憑依これらすべてが拒否されている。日本および西欧の近代的自我、すなわち「私」が考え行為するというときの「私」が失われることの否定である。太古の自然との一体化からの分離と、すべてを理性的にコントロールしようとする意志とともにこの否定は始まった。それとともに近代人は強い不安と緊張にされされつづけ、「私」という個を存続させるという重い荷を背負うこととなった。そこには近代特有の奇妙な精神症候である神経症が現れることになったのだが、それを文化結合症候群と名付ける異文化の精神科医はいない(「アイヌのイムについて」、同上;pp.365-366)。


*日本および西欧の近代人には「神謡」がないというのは言い過ぎでしょう。宗教教団、特に新宗教の教義や儀礼は、アイヌの「神謡」の機能的等価物になりうると思います。