「毒婦たち」への疑問

 外傷的事態は、「しばしば語りえないものをあえて語る」ために、ストーリーは、一般に、現像中の写真のように、もやもやしたものが少しずつ形をとってくることが多い。ここで、治療者があせってはよくない。好奇心が先に立つようではすべては失われる。治療者内面の正義感はしばしば禁じ得ないが、治療の場の基底音としては、むしろ、慎ましい「人性(あるは運命)への静かな悲しみ」のほうがふさわしいだろう。外傷はすべての人に起こりうることであり、「私でなくなぜあなたが」(神谷美恵子)とともに「傷つきうる柔らかい精神」(野田正彰『戦争と罪責』)への畏敬がなくてはなるまい(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』みすず書房、2004年(初出2000年)、p103)。


 犠牲者は聖者ではない。彼女が傷口に塩を塗るような「精神的リストカット」を行うことも、外傷の再演を強迫的に求めることも、どんな男性もしょせん男性であることを確認しようとすることも、これらがすべてないまぜになっていることもありうる(同上、pp.106-107)。


 また、レイプ関連患者は女性医師に多くをゆずらなければならない。男性医師はしばしば男性としての依存と敵意を向けられ、攻撃の対象になるか、共倒れになる恐れがある。しかし、幸福そうにみえる女性医師にも同じ可能性があるかもしれない。私の経験は先に述べた「副次的治療者」としての役割にとどまる(同上、p113)。


*繰り返しになりますが、私は木嶋佳苗被告は、性的虐待によって引き起こされた解離性パーソナリティ障害(俗にいう多重人格)ではないか、と強く疑っています。「毒婦たち」(上野・北原・信田)は、好著だと思いますが、執筆者たちが被告を、「目的」ではなく、自分の政治的主張のための「手段」として位置づけている側面がなくはないと思います。正直言って、「毒婦たち」には、被告に対する「静かな悲しみ」が不足している印象があります。