「人を助けて我が身助かる」を再考する

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/nakayamamiyuki/rironco/kyogigenkeico/otasuke.htm より転載


 天理教教義の有名な句の一つに「人を助けて我が身助かる」の御教えがある。この御言葉をどう拝するべきだろうか。これについて愚考しておく。
 「人を助けて我が身助かる」には幾通りかの拝し方があるのではなかろうか。ごく普通には、人を助ければ回り回って必ずお返しがあるとの諭しと受け取ることができる。これを仮に功利的な受け取り方即ち功利論と命名する。もう一つ、人間の存在の仕方自体が「人を助けて我が身助かる」的共同体の裡にあるとの御教えとも解することができる。これを仮にフォイエルバッハ的「類的共同性存在」の概念的受け取り方即ち共同体論と命名する。もう一つ、実はこれを云いたかったのだが、人を助けること自体の裡に助ける側が逆に助かっていると云う御教えもあるのではなかろうか。これを仮に効能的受け取り方即ち効能論と命名する。「人を助けて我が身助かる」には少なくともこの三通りの拝し方があるのではなかろうか。他にもまだ、れんだいこに気づかない拝し方があるのかも知れない。
 なぜ、このことを指摘するのかと云うと、功利論的な拝し方のみで受け止めたり説かれている気がするからである。これでは教祖の教理の真意が十分理解されていないと思う。この教理の神髄はむしろ効能論の方にあるのではなかろうか。効能論を通せば次のようなことが見えてくる。病気の人は共通して概ね自分自身のみの苦からの解放に囚われており、その分意識が自身に閉じこもっており、視野が狭く人に役立とうとする意識が弱い。これに対して、快活な人は共通して概ね家族なり世間に役立つことを願い、これを生き甲斐として生き生きと生活している傾向が認められる。つまり、功利的な人助けでなく、人助けすることによりいつしか自身が健康に恵まれていると云う不思議が見て取れる。
 れんだいこがこのことに気づいたのは次の体験による。或る時、車で雪の山坂道を下っていた。既に二時間近く走っていたのでタイヤに付着した雪が氷状になりスリップし易くなっていた。そのことを深刻に思わず帰路を急いでいたところ、坂道でブレーキが利かず、スピードが次第に上がり遂にガードレールに衝突する破目になった。この時、れんだいこは、ガードレールの先に電信柱があることを認め、それが助手席の連れ合いの方向に向かっていた為、咄嗟に連れ合いの顔を庇おうとして身を被せた。この数秒、否1秒のコンマ何秒の刹那に連れ合いの顔を見たところ、ポカンとして事態に気づいていなかった。ズドーンと衝突した。幸いバンパーとエンジンルームまでが大破し、電信柱が車内にまで迫ることはなかった。ぶつかった瞬間、ハンドルが激しく突きだしていた。もしも、れんだいこが身をそのままにしていたら胸を強打していただろう。幸いに、れんだいこは連れ合いを庇って身を外していたので突き指程度で済んだ。事故は有り難くなかったが大難を小難にすることができた。
 暫くして気づいた。れんだいこの連れ合いを助ける行為が、連れ合いのみならずれんだいこの身をも救ったのではなかろうか。ここに教理の「人を助けて我が身助かる」の極意を見た気がした。そうか、「人を助けて我が身助かる」とは、人を助ける行為が即助ける人をも救っているのかと。してみれば、通説の功利論的受け取り方は浅いのではなかろうかと。以来、れんだいこは、この御言葉を効能論的に理解している。効能の果てに功利的なものがあろうとなかろうと、そういうことにはお構いなく効能的に理解せんとしている。そういう眼で見れば、確かにボランティア的な活動している者に元気達者な者が多いことに気づく。なるほどと得心している。剣術の極意とされる「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」も、近い教えではなかろうか。
 ところで、「人を助けて我が身助かる」の理合いを学ぶ上で、身の内の助け合い構造をも知っておく必要がある。どういうことかと云うと、身の内の諸機関、諸組織が互いに助け合っており、その様は不思議でもある。恐らく、科学が極めようとしても更に奥深くに神秘を見続けることになるだろう。次に、その身の内が身の外と相関している理を知る必要がある。身の外自体も全体として見ればそれなりに助けあっている様を見て取ることができる。こうなると、身の内と身の外との助け合いの理をも知る必要があろう。こうして、「人を助けて我が身助かる」の御教えは、これを考察すれば次第に奥深く入り込む味わい深い御教えとなる。最近のエコロジー論にも繋がってくるのではなかろうか。
 この点で、西欧思想は、東洋思想の、中でも日本思想のこの奥深い御教えに対して叡智が不足しているように思われる。即ち、日本人は、自信を持って日本思想を学び、且つ世界の諸思想を咀嚼せよと云うことになる。取り敢えず以上記しておく。

 2010.12.22日 れんだいこ拝