「宗教と社会」学会パネル

 皇學館大学で開催される「宗教と社会」学会の二日目・6月16日(日)の午後(14時〜17時)に、パネルを開催します。


<パネル名>「『民衆宗教研究』の新展開(3)−『民衆宗教』と精神医学/治療文化−」
企画・司会 熊田一雄(愛知学院大学
発題  「宗教的現実と言語世界」 大月康義(大月クリニック)
報告1 「病いのコスモロジーと宗教者の身体−治療者の身体について−」永岡崇(南山大学
報告2 「不安障害と日本の宗教−病との共存について−」 熊田一雄(愛知学院大学
報告3 「臨床におけるクロノトポスと『ゼロポイント』−生命・文化・物語・反物語−」 下地明友(熊本学園大学
コメンテーター 島薗進東京大学


<企画の狙い>
 「民衆宗教」と精神医学の関係は、古くて新しい研究分野である。精神科医の大宮司は、1995年に著書において、「精神医学によって規定される病理性を発見することはもちろん重要だが、治療論に引き寄せて考えれば、病理性をもった人達がそのまま、なるべく無理をしないで生きることが出来る可能性を見いだすにはどうしたらよいか、またそうなるためには病者と健者の両者にはどのような存在様式の変容が互いに必要なのか、そんなことを考える。この文脈でいえば宗教は個々の病気の単なる癒しにとどまらず、その人なりの生を生きるための全人間的でドラスティックな変容を考えることは言うまでもない」という先駆的な問題提起をしたが、この問いの重要性は、その後の経済のグローバリズムと日本社会における新自由主義的風潮・個人の「自己責任」が過度に強調される風潮の中で、増しているように思われる。
 大月は、文化精神医学の立場から、現実の多重性と宗教的現実の存在について発題する。永岡は、戦前期の「民衆宗教」に関する資料を読みながら、宗教者の身体がいかなる地平を切り開いていったのかを論じる。呪術的治病に代表される「民衆宗教」の身体的側面は、知識階層から「淫祠邪教」として貶められてきたが、「民衆宗教」の救済活動を実質的に支えてきた宗教者の身体には、身体の思想というべきものが蓄積されてきたのではないだろうか、という問題提起を行う。熊田は、天理教の事例を中心に、「民衆宗教」の「人をたすけたら我が身たすかる」という教えがもつ「不安障害」に対する治療的意味を論じる。熊田は、「近代宗教学」が「功利的」発想として軽視してきた側面のもつ治療的意味に焦点を当てる。下地は、精神科臨床における、病いを巡る臨床の過程を、トポスの発生(場の形成)、その場に参与する人びとの相互作用について、琉球諸島シャーマニズム的風土における事例を提示しながら、病いの臨床について、医療人類学的視点、物語論的視点、生命論的視点、宗教をめぐるパトス的視点から、論じる。その際、「臨床の零ポイント」概念や、「サファリング・コミュニテイ」などを提示する。島薗は、大局的見地から論点の整理を行う。
 もとより、このパネルで取り上げる個々のテーマはいずれもとても大きく、とうてい一個人に論じつくせるものではない。このパネルは、「『民衆宗教』と精神医学/治療文化」というテーマについて、結論を出すのではなく、論点を再整理することを目標としている。