アダルトチルドレンと「適切な距離」

 まもなくその非に気づいた私は精神病の精神療法に関してだが、「適切な治療的距離」(proper distance)という概念を先人の文献から借りてきて強調した(「精神療法一般の治療機転」「精神医学」9、二七三ー二七八頁、1967年)。しかし実際は精神病より一見コンタクトの取りやすい、それでいて近づき過ぎて、行動化を誘発する境界例での失敗経験によるものだった。
 もっとも、この「距離」には「相手への尊重」という心理的姿勢が底になければならない。どのような例に対しても苦しさに耐える彼らへの「畏敬」、もし条件が少しだけ違えば私もまた彼らと同様の苦しさを味わったであろう運命についての「思い入れ」などを含んだ「距離」である。境界例治療経験四十年の総括として、諸家の意見を「適切な距離」という言葉でまとめたいと思うが、どうであろう(笠原嘉「境界パーソナリテイ障害(DSM)研究の昨今ー文献紹介を中心に−」『笠原嘉臨床論集/境界例研究の50年』みすず書房、2012年、pp.211-212)。


 これは本書唯一の書き下ろしです。これを書くために久しぶりに文献を渉猟しました。実に久しぶりに米国文献に当たりました。しかし独力では思うにまかせません。残念ながら年齢です。仕方がないので現役の人に助けを求めました。臨床の研究に若いころボストンに行った経験をもつ人が助けてくれました。その人はさすがです。DSM以降の米国の重要な臨床関係論文をいくつか教えてくれました。そのなかから、ここで紹介するガンダーソンの2009年の論文を選んだのです。これを読んで少し安心しました。深遠な洞察療法ではなく、むしろ支持的で常識的な精神療法こそが望まれるという結論には健康感があります。北風よりマントの方がよいというのです。それから、私の論文の結語のなかで少し触れましたが、生物学の跳梁の中にいる米国の良識的な臨床研究者たちの無念を読み取ることができて、このことにも安心しました。米国の精神医学は健全です。根っこから公衆衛生学の軍門に下るということはないでしょう。次いで調べた邦文文献のなかからは、迷ったのですが、鈴木論文を選びました。2000年に行われた救急部看護師への講演に先駆的な意義を見出したからです。今や精神科看護師を育てることが急務だという私の思いに、多分読者は賛同していただけますよね(笠原嘉「解題」同上、pp.3-4)。


*私が島薗進氏の、「現代日本における『個人参加型』の宗教団体の増加は、現代社会における人間関係の希薄化の反映である」という議論がやや短絡的であると思う理由は、「心なおし」に笠原嘉氏のいう「適切な距離」が必要な人も増加していると思うからです。