信仰指導と家族療法ー天理教の事例よりー

 原田さんは、ある宗教の信者であったが、奥さんが突然、気がちがってしまった。暴れ回っていやがる彼女をしばりつけて車に乗せ、その本部までつれこんだが、ついに御利益は頂けなかった。すべての努力は徒労に終わって、なす術もなく天を仰いで長嘆息しているところへ、においがかかった(熊田註;天理教の用語で、布教のきっかけができること)。
 原田さんはすぐ布教所へ運ばれた。
「先生、すぐ家へ来てたすけてください。」
「まず、あなたにお話を聞いていただきたいのです」
「私はこの通り、ピンピンしているのですよ。病人は家内なんです。どうか家内を・・・・・・」
「なるほど。奥さんが病気ですね。しかし病人は、むしろあなたご自身ですよ。放心状態になっていられる奥さんを視て、悩み苦しんでいるあなたこそ、病人ですよ。よく考えてごらんなさい。
 左の小指に怪我をしても、小指だけ苦しんでいればすむものではありません。左手全体の苦しみ、大きく言えば身体全体の苦しみですね。それと同じように、これは原田家全体の病気です。特に、見て苦しまねばならないあなたに、このわけを聞いていただくことが先決問題です。」
 そう言われて原田さんは、半信半疑のままで私の話を聞いてくださることになった(篠田寛一『それでよろしいか』道友社文庫、2011年(初出1961年)、pp.182-183)。


*この女性の精神疾患は、最終的には完治しています。この女性は、精神疾患になることによって家族関係の中でなんらかの「二次的疾病利得」を得ていたのでしょう。


ー「二次的疾病利得と正面から闘って勝ち目はない」(中井久夫『治療文化論』岩波書店、1990年、p57)。


 この天理教の布教師は、病人ではなくまず夫に改心を要求することによって、この女性が「安心して治ることのできる」家庭環境を整える「家族療法」を行い、精神疾患の治癒に貢献したのだと考えられます。