大震災と「聴きだすけ」

 天理教には、「聴きだすけ」という言葉があります。


 先輩布教者の経験から生まれた言葉に「聴きだすけ」というものがある。徹底して聴き、心の痛みを共感する中から事態が見えてくるのである。相手も思いの丈を話すことで、心の重荷を幾分か降ろせる場合もある。
 そして事態が見えてきたら、次の段階として、目の前の現実的問題に対処する。その際、必要に応じて専門家や専門機関の活用を検討する(天理教やまと文化会議(編)『道と社会ー現代“事情”を思案するー』天理教道友社、2004年、p56)。


(前略)聴くことはかならずしもすべてのことばをきちんと受けとめ、こころに蓄えるということではない。あまりにもきちんと聴き、一言一句に対応されると、かえって胸が詰まってしまうときがある。ある研修会で精神科の医師からうかがったことだが、ことばを受けとめるといっても、そこにはつねにアースが必要だというのだ。じぶんがきちんと受けとめたら、じぶんのほうがもたない。それにがしっと受けとめると、それが反射して相手に悪影響を与えることもある、と(鷲田清一『「聴くこと」の力ー臨床哲学試論ー』阪急コミュニケーションズ、1999年、p76)。



 宗教の現場では、神仏のような超越者が、「聴くこと」における鷲田さんのいう「アース」の役割を果たしているのでしょう。今回の大震災の現場でも、行政はまず「心のケア」のために精神科医臨床心理士を派遣しますが、長いタイムスパンでは、「アース」をもつ宗教者の方が「聴きだすけ」に適しているのではないでしょうか。


<祈りとしての聴取>
 ことばは、聴くひとの「祈り」そのものであるような耳を俟(ま)ってはじめて、ぽろりとこぼれ落ちるように生まれるのである。苦しみがそれをとおして現われ出てくるような《聴くことの力》、それは、聴くもののことばそのものというより、ことばの身ぶりのなかに、声のなかに、祈るような沈黙のなかに、おそらくはあるのだろう。その意味で、苦しみの「語り」というのは語るひとの行為であるとともに聴くひとの行為でもあるのだ(同上、p165)。