「アバター」が映すアメリカの苦悩

日経ビジネスオンライン』より転載 http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20100203/212564/?P=3


白人中心主義とリベラリズム思想の対峙

 さて、最初の第1の問題に戻ろう。アメリカ映画に野蛮な「文明人」vs.気高い「野蛮人」の構図が繰り返し登場するのはなぜだろうか。この構図は、アメリカの保守思想としての白人(アングロ・サクソン)中心主義に対して、リベラリズム思想が対峙する時に登場する

 すなわち、アメリカのリベラリズムが示す異文化や文化的な多様性への理解と共感が根底にあるのだ。あるいは、自然を損なうことを代償に発展して来た現代機械文明の中で、人々が抱く自然的な要素に対するノスタルジーと悔恨であるとも言える。

 インディアンを土地から追い立て、彼らとの戦闘と流血の上に今のアメリカ社会があるという事実は、やはりアメリカ文化の負う原罪として国民的な深層心理に潜んでいる気がする。ただしそれを「アメリカ人にだって過去に対する贖罪意識があるんだな」と考えれば、少々「おめでたい」ことになるかもしれない。

 人類学者のレヴィ・ストロースが50年以上も前にこう語っている。

 「文明社会は、それらのものが(=白人の目に非文明的として映るすべての要素:筆者注)真の敵対者であった時には、恐怖と嫌悪しか抱かなかったにもかかわらず、それらのものを文明社会が制圧し終えた瞬間から、今度は尊ぶべきものとして祭り上げるという喜劇を独り芝居で演じているのだ」(「悲しき熱帯」、1955年)

 このストロースの言葉に補足は不用であろう。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20100203/212564/?P=4

寄り合い国家だからこそヒーローを渇望する

 第2のポイントはアバターが描くヒーロー(英雄)像である。この点でアバターは極めて娯楽的である。娯楽的という意味は、観客が見たい夢を見させるということだ。映画のクライマックスで主人公のジェイクはナビ人の間に古代から伝わる英雄伝説にまつわるある決死の挑戦に成功し(語らずにおく)、オマティカヤ族の前に戻る。英雄伝説の復活を目撃してナビ人達は息をのむ。ジェイクは「我々の世界を守る戦いに立ち上がろう」と呼びかけ、パンドラのすべてのナビ人各部族の戦士を動員し、侵略する地球軍を相手に決戦を挑む。

 下半身不随の元海兵隊兵士がパンドラの生態系とナビ人を救うヒーロー(英雄)として復活するわけである。英雄崇拝はどの文化にも共通する要素であるが、アメリカ人のヒーロー願望には独自な根強さがある。アメリカ文学者である亀井俊介東京大学名誉教授は著書「アメリカン・ヒーローの系譜」(1993年)の中で次のように読み解いている。

 「なぜアメリカ人はそんなにヒーローを求め、歓呼するのか。もとよりアメリカ人は西欧を中心に世界中から寄り集まった国民である。文化的背景、風俗習慣、言語さえ異なる人々の寄り合いで構成される社会の人間関係は、絶えざる緊張と不安にさらされている。アメリカ人とはいったい何か、自分は本当にアメリカ人か、といった不安感を克服するために様々なアメリカの集団的なシンボルが作られてきた」

 目に見えるシンボルとしては、国旗、国歌、独立宣言、合衆国憲法など、思想的なシンボルとしては「神」「自由」である。大統領は演説の最後に「God bless America」ということを決して忘れない。

 亀井教授によると「それでもこれらのシンボルはどうにも抽象的だ。もっと自分と同一視できるような『血肉の通ったシンボル』がほしい。その渇望にこたえるものがヒーローだ」というわけである。

 映画アバターは今日のアメリカ人の琴線にふれるヒーロー像を提供している。戦場で傷つき下半身不随の元海兵隊の主人公ジェイクは、戦後の幾多の戦争で傷ついたアメリカの姿の象徴である。その主人公がアバターで新しい肉体を得て、強欲と軍事的な暴虐から世界を救うヒーローとして蘇る。


アメリカ的なるものと非アメリカ的なるものの融合

 「おいおい、強欲と軍事はアメリカの十八番(おはこ)だろう。ずいぶん勝手な発想じゃないか」と思う読者も多いだろう。その通りだ。その点で、映画アバターの物語は、最もアメリカ的な要素と極めて非アメリカ的な要素の融合であり、そこにグローバルなメガヒットとなる普遍性も備えているのだ。

 チベット人ウイグル人がこの映画を見れば、ナビ人に自分らの姿を重ね、私たち日本人や西欧人は「ブッシュ+ネオコン」権力の挫折を重ね見る。もしかしたら、アメリカを狙うテロリストでさえ、この映画に興奮するかもしれない。

 自分との反対物までを飲み込んで自らのヒーロー伝説に仕立て上げてしまうこの精神を、アメリカの超傲慢さと感じるか、あるいはタフネス(強さ)と感じるか、それは皆さまのご自由である。私自身は、ナビ人たちの戦いに不覚にも目頭が熱くなってしまったとだけ言っておこう。


*日本でも、中曽根元首相は「自分の血にはアイヌの血がまじっている」と発言していましたし、今でも梅原猛さんは、「縄文=アイヌアニミズムの文化が人類を救う」と主張しています。日本におけるアバターの大ヒットが、こうした皮肉な構図に対する日本人自身の反省にまで結びつけばいいと思います。