ハンディ・ゲームー高橋留美子のラヴ・コメディについてー
高橋留美子(1957-)は、子ども向けの通俗マンガ家と思われているのか、日本ではサブカル評論家に論じられることが少ない(論考をご存じの方はご教示下さい)マンガ家ですが、私は後世の人はこの人の才能を高く評価するだろう、と予想しています。アメリカのManga Shopで一番売れていたのは、この人の作品でした。
イギリス文学の古典「ジェーン・エア」(1847)について、ヒロインである孤児院出身のジェーン・エアは、恋人のロチェスター伯爵が火災で家屋敷(と元妻)を失い失明する一方で、自分の方は「叔父の遺産」を相続した時に、始めて伯爵のプロポーズを受け入れるが、そこに女性作者シャルロット・ブロンテ(1816-1855)の男女間の権力関係についての近代的な醒めた認識がある、と聞いたことがあります。伯爵とただの孤児のままでは、結婚しても、男女関係が「支配―従属関係」になってしまう危険性があるのです。近代社会では、男性に何らかのハンディを科さなければ、男女間の「対等な対」を説得的に描くことができなかったのでしょう。
1980年代に入る頃から、高橋留美子は、ラヴ・コメディ漫画において男性主人公には巧妙にハンディを科した作品設定を用いています。「うる星やつら」(1978-1987)では、鬼娘ラムには「飛行と電撃の能力」を与えました。「めぞん一刻」(1980-1987)では、管理人の響子さんには「アパート一棟の所有権」を与えました。その後、「らんま1/2」(1987-1996)で、男にも女にもなりうる「思春期の怪物的身体」(J・Napia)、J・バトラーが「ジェンダー・トラブルーフェミニズムとアイデンティティの攪乱ー」(青土社、1990=1999年)でいうように「パフォーマンスがジェンダー・アインデンティティをつくる((従ってジェンダー・アイデンティティは可変的である)」というポストモダン的状況を実験的に書いた後、高橋留美子は、「犬夜叉」(1996-2009)においては、ほとんどノー・ハンディの恋愛を描くことにに挑戦しました。
「犬夜叉」のヒロイン・女子中学生の「かごめ」は、いつもセーラー服を着ていて、半妖(妖怪と人間のハーフ)のヒーロー・犬夜叉に守ってもらうのではなく、犬夜叉とともに悪の勢力と戦います。かごめは、もはや超能力も不動産ももっていません。ただし、半妖(妖怪と人間のハーフ)のヒーロー・犬夜叉の頭にはわっかがはめられており、かごめが「おすわり」(英訳では“Sit!”)と「玉鎮めの言霊」をかけると、地面にたたきつけられて腰砕け状態になってしまいます。恋愛関係において、男性には、まだわずかにハンディを科す余地が残されていました。
犬夜叉のこの「おすわり」という言葉に、現代日本の子どもたちがもつ男女間の権力関係についての、「ほとんど対等だが、まだわずかに男性優位」という認識を見ることができます。犬夜叉の頭にはめられたわっかのような製品を実用化すれば、購入して恋人や配偶者の男性に身につけさせたいという女性は、日本にごまんといるのではないでしょうか。
2009年度から「少年サンデー」で連載されている「境界のRINNE」(続刊中)では、ヒーローの六道りんね(死神と人間のハーフ)は内職をしながら高校に通うほど「貧乏」だが、ヒロインの女子高生・真宮桜は中流階級の「普通」の家庭出身と設定することによって、「富の有無」という形を用いて、高橋留美子は依然としてヒーローに巧妙にハンディを科し続けています。
このように、恋愛関係において常に男性に巧妙にハンディを科すという作品設定によって、高橋留美子のラヴ・コメディ漫画は「対等な対」を説得的に描くことに成功し、男子も女子も不快感なく安心して楽しめる作品になっていると見ることができるでしょう。
そういえば、いまの大学生に「次に生まれ変わるとすれば、男がいいか女がいいか?」と尋ねると、男子はほぼ全員「男」を選ぶのに対して、女子の答えは割れます。昔よりは男女平等に近づいたことは確かですが、若者の間でも、「わずかに男性優位」の社会状況はやはりまだ続いているようです。