野暮の構造

 昭和十二年、九鬼は「日本的性格」という論文を発表します。当時、日本社会は米英との対決姿勢、軍国主義化が進むにつれて急速に伝統国粋主義的風潮を強めつつありましたが、西田幾多郎をはじめとする京都学派の学者たちもこうした風潮に呼応するように、それぞれの思想的立場からの日本文化論を展開しました。「日本的性格」もそうしたひとつの例といえますが、そこには『「いき」の構造』や『偶然性の哲学』の思考をひきつぎながら新たな角度からの日本文化論が加わっています。
 ここで日本人の発想、行動様式を分析するにあたり、九鬼は三つの要素をあげていますが、そのうち意気地(意地)と諦めは、『「いき」の構造』からそのまま変わらないのに対して、残る最も重要な要素として媚態が自然に入れ替えられているのが大きく変化している点です(大久保喬樹九鬼周造の生涯と思想」九鬼周造大久保喬樹(篇)『いきの構造』角川ソフィア文庫、2011年、p178)。


九鬼周造(1881-1941)の『「いき」の構造』(1930)では、「いき」の根底にある「媚態」は、「異性との不安定な、緊張した関係」を意味していました。サイードのいう「オリエンタリズム」の体制下では、「西洋は男性、東洋は女性」として表象されます。「いきの構造」は、文明論的には日本人の「西洋との不安定な、緊張した関係」を分析した本としても読めます。「日本的性格」(1937)で「媚態」が「自然」に置き換えられたのは、日本人が「西洋との不安定な、緊張した関係」に耐えられなくなって、日本回帰・「男性」回帰した論文としても読めます。その意味で、「日本的性格」は「野暮の構造」としても読める論文です。