民衆宗教研究

「宗教学事典」(丸善、2010年7月刊行予定)より転載

民衆宗教研究
研究史 日本では、1970年代頃まで、左翼left的な歴史学者が、主として幕末維新期の初期新宗教を指して、好んで「民衆宗教」という用語を用いていた。ところが、その後、「民衆宗教」という用語は使いにくいと感じられるようになった。島薗進は、1995年に「民衆宗教か、新宗教か―二つの立場の統合に向けて」(江戸の思想編集委員会編『江戸の思想1 救済と信仰』ぺりかん社)という論文を書いて、歴史学者が好んで用いる「民衆宗教popular religion」という用語より、宗教社会学者が好んで用いる「新宗教new religion」という用語の方が身近である理由について述べている。
 民衆宗教という用語が使われなくなった理由の1つは、研究者自身が「民衆」ではない位置にいて、多くの人々を「民衆」とよび、ひとまとめにしてある特性をもった存在として指示するのは居心地が悪かったことによる。100年以上も前の過去について、あるいは接する機会の少ない遠くの人々に対してはそれでよいとしても、少なくとも現代日本についてはこの語の使用が難しいと感じられるようになった。だが、ここ数年はこれまでよりも抵抗感が薄れた。それは日本国内で社会的格差が拡大し、グローバルな規模での格差について語るのと同じような事柄として国内の格差について語りうるようになったことが影響しているだろう。
 これまで日本で民衆宗教に言及する場合、3つほどの方法論的、理論的な背景があったと思われる。第1はマルクス主義的な階級史観を背景として、国民国家の形成の前後に生じた民衆宗教運動に注目し政治的変革との関連を考察しようとするもの。第2は歴史宗教が優位にある社会で宗教的エリート層の宗教性とは異なる、口頭伝承的な宗教性に注目するもの。第3は植民地状況の下で従属的な地位に置かれた人々(サバルタン)が支配体制を受け入れたり、それに抵抗したりする際にどのような宗教性が関与しているかに注目するもの。以上の3つである。
●新しい研究動向 2000年代に入って、若手研究者を中心に「民衆宗教」研究会(民衆宗教という言葉に括弧がついていることに注意)が発足し、現代の日本や先進国における新たな格差の拡充という文脈の下で、民衆宗教という概念の活力を再発見しようとしている。民衆宗教という概念を、かつての歴史学と違って、実体概念としてではなく、戦略的に使用しようという試みである。民衆宗教という言葉を戦略的に使用していることをはっきりさせるために、民衆宗教という言葉に括弧をつけるようになっている。かつての民衆宗教研究と異なり、かつては研究の対象であった教団関係者も多数参加しており、現在の「民衆宗教」研究においては、研究者が宗教者に対して知的優越を主張することは、もはや全く見られない。教団の各種の実践的課題と深く関係していることも、現在の「民衆宗教」研究の大きな特徴である。
 現在の「民衆宗教」研究は、民衆宗教の担い手として、「精神世界」の本を個人的に消費するだけで満足しているような、個人主義的なライフスタイルの人たちではなく、相互扶助の持続的共同体sustainable communityを必要とする人たちを考えている。経済のグローバリズムglobalismと、日本では2001年に登場した小泉政権新自由主義neo liberalism的改革によって鮮明になった、すべてを個人の「自己責任」に帰する言説の広がりに対して、「人は自己責任だけで生きられるものではなく、相互扶助の持続的共同体が必要である」と、現在の「民衆宗教」研究は考える。現在の「民衆宗教」研究は、かつてのマルクス主義の理想が失効した状況下で、新自由主義に対する新たな対抗軸の提示を目標としている。
 現在の「民衆宗教」研究は、民衆宗教の宗教性のなかに、国際的にも国内的にも深化する格差の問題にどう対応するか、という現代的な関心に応じるような特徴的な宗教文化的資源を発見しようとしている。筆者の個人的な見解では、日本では、それは「弱きを助け、強きを挫く」という「侠気」である。「侠気」は、女性も、というよりも現代日本では、組織の論理に縛られがちな男性よりもむしろ女性の方が体現しているものである。侠気は、倫理的態度の血肉化されたものという意味で、M・ウェーバー社会学でいう「エートス」に相当する。「侠気」は、宗教の政治への従属が近世という比較的早い時期に完成した東北アジアにおそらく共通した課題である。少なくとも、幕末維新期から明治末期まで(日本が総力戦体制に突入するまで)の日本の新宗教には、「侠気」が濃厚に存在したし、現在でも、「侠気」は「民衆的正義感の心のふるさと」として確かに存在する。
 かつての民衆宗教論は集団や共同体を念頭においていたが、現代における「民衆宗教」研究は、集団や共同体に依拠しないタイプの宗教性もまた念頭に置いている。各種の自助グループや、アダルトチルドレン(通俗心理学で、自分の生きづらさが親との関係に起因すると自覚する人のこと)運動は、「あえて世話をしないという親切」を掲げて、一見相互扶助の持続的共同体を作らない。しかし、各種の自助グループアダルトチルドレン運動は、発祥の地であるアメリカでは、キリスト教の教会という相互扶助の持続的共同体と密接不可分な関係にある。現在の「民衆宗教」研究は、各種の自助グループアダルトチルドレン運動の参加者の、現時点では日本では不十分な「アフターケア」、すなわち宗教界とのより緊密な連携を模索しているものでもある。
 <参考文献>
熊田一雄「『民衆宗教研究』の新展開ー新しい『階級』の時代の宗教社会学」『宗教と社会』15号、2009