「個人化した社会」における「重要な他者」

「社会とは模倣であり、模倣とは一種の催眠状態である。」(ガブリエル・タルド「模倣の法則」河出書房新社、2007年(原著1895年)、p138)

 タルド(1843-1904)は、デュルケム(1858-1917)が社会学という学問分野を<発明>するにあたって、葬り去った論敵です。しかし、社会心理学者のG・H・ミード(1863-1931)は、デュルケムの社会実在論よりもタルドの社会名目論の方に共鳴していました。デュルケムが社会学の研究対象とした「社会的事実」とは、個人がミードのいう「重要な他者」との出会いを経過した後に成立するものなのでしょう。「社会の個人化」(バウマン)が進行するポストモダンまたは「第二の近代」の時代に入った先進諸国では、個人は「重要な他者」と「すれちがう」ことが少なくないのではないでしょうか。これが、ドゥルーズのような現代思想の論客がタルドを再評価する理由でしょう。ドゥルーズ=ガタリの「アンチ・エディプス」は、「重要な他者」が「父親」でなければならない必然性はない、と主張している本でしょう。「アダルトチルドレン(自分の生きづらさが親との関係に起因すると自覚する人)」が「フワフワ浮いて生きている」(信田さよ子)ように感じるのは、「重要な他者」と出会い損ねているからでしょう。日本文化やユダヤ人文化では、「重要な他者」は「母親」に代表されます。現代日本の宗教界で、母親(または母親代わりの人物)との関係を整理する宗教=心理複合運動である内観法(内観療法)が流行している社会的背景は、この点にあると思います。