武装としてのロリータ・ファッション

 嶽本野ばらの小説「下妻物語ーヤンキーちゃんとロリータちゃん」「下妻物語(完)」を読了しました。2004年の映画版が佳作だったので、原作にも目を通してみました。主人公の竜ヶ崎桃子のロリータ・ファッションは、茨城県下妻市というジェンダーに関して保守的な環境において、男性(オヤジ)の女性を「聖母か娼婦か」(田中美津)に分断する視線を跳ね返すための「武装」ではないか、と思いました。「私は聖母にも娼婦にもならない」と宣言する武装という点では、桃子のロリータ・ファッションは、ヤンキーである白百合苺の「特攻服」と同じです。桃子の「ダメ親父」は、母親(桃子の祖母)から精神的に自立できておらず、桃子が高校を中退すると言うと、桃子にキャバクラ嬢ソープ嬢になることを勧めるような、絵に描いたような女性を「聖母か娼婦か」に分断する男性です。ロリータ・ファッションに、男性中心主義社会における女性の「武装」という側面があることを見抜いたのは、嶽本の慧眼だと思います。
 しかし、この小説の完結編のラストは、私には中途半端なものに思えました。デザイナーになるべく東京に旅立つにあたって、桃子は「苺が好きだった」ことを自覚します。「ダチっていうより、恋人だった気がする。イチゴは、私にとって。」しかし、「私はエスではないから、イチゴにそういう意味での欲望は感じない。」と自分の同性愛的欲望は否定しています。異性愛中心主義からは、まだ完全には自由になれていません。この小説は、「百合物件」(拙著「男らしさという病?」参照)にはなりません。自称「乙女派文筆家」嶽本野ばら自身が、異性愛中心主義から完全には自由になれない男性なのでしょう。後に嶽本が大麻所持で逮捕され有罪となったのは、彼の異性愛中心主義という限界が露呈された事件だったと見ることができるかもしれません。麻薬の力を借りなければジェンダー秩序の呪縛からトリップできないようでは、未熟者のそしりを免れないでしょう。