目玉おやじの復権

*「愛知学院大学人間文化研究所所報」34号より転載

 ポストモダンとも「第二の近代」とも表される現代の日本における理想的な父親像は、マンガ=アニメ「ゲゲゲの鬼太郎」(水木しげる原作)に登場する「目玉おやじ」ではないだろうか。
 梶原一騎原作のスポ根マンガ「巨人の星」に登場する星一徹と比較すると、目玉おやじ的父性の特徴が見えやすい。高度経済成長期の国民的アニメ「巨人の星」における「星一徹星飛雄馬」の父ー息子関係は、日本が敗戦から奇跡的な経済復興に向かう過程での、「人種/ジェンダー/精神分析」の関係を鮮やかに表現していた。否認されている強烈なアメリカ・コンプレックスとアメリカ白人に対する憎悪。「父に鍛えられて、息子は(経済戦士という)同じ道で父を越える、そしてアメリカ人に負けない男性にならなければならない」という「父ー息子関係」の理想。「思いこんだら試練の道を行くが男のど根性」という「男の意地」(拙著「男らしさという病?」風媒社2005年参照)。星一徹は、息子を「鍛える父」、ひいては息子を「立身出世」へと「駆り立てる父」である。
 それに対して、目玉おやじは、息子を「見守る父」、ひいては息子を「導く父」である。「少年よがんばるなかれ」「なまけ者になりなさい」と色紙に書き、自ら「ほがらかなニヒリズム」(呉智英による評)を体現している水木しげる(1922-)は、「日本土人」(水木しげる「ねぼけ人生」筑摩書房、1999 年)を自称する幼い頃からの気質に加えて、太平洋戦争中に「皇軍兵士」(二等兵)として南洋ラバウルで戦場の地獄(と水木のいう「土人」たちの天国のような暮らし)を見て左腕を失ったこともあって、従軍体験のない梶原一騎(1936-1987)とは対照的に、後発資本主義社会である日本社会の「立身出世主義」という「近代化のたてまえ」を全く信じていない(水木しげる水木しげるラバウル戦記」ちくま文庫、1997年(原著1994年)。
 目玉おやじは、息子を「見守る父」である。病死した父親が息子の鬼太郎を案じて目玉だけの存在となる、という設定は卓抜である。同じ身体の感覚器官でも、耳・鼻・口では、父親像には向かない。目玉であるからこそ、文字通りに鬼太郎を「見守る」ことができるのである。「ゲゲゲの鬼太郎」シリーズに、「妖花」という作品がある(電子書籍版「鬼太郎大全集」第9巻、アニメでは第1作の32話)。「妖花」では、両親のいない孤独な少女の安アパートの風景が描かれている。南方のジャングルで咲くという妖花が毎年花を咲かせる。花子は鬼太郎たちとはまぐりの舟で南へ行き、そこで南の島で白骨となった花子の父の指輪を発見する。死んだ父はニ十三年もかかって島々をわたって来て妖花に化けて孤独な少女をじっと見守っていたのだった、という粗筋である。「父性」の本質は子供を「見守る」ことにある、という水木しげるの父性観がよく伺える作品である。
 目玉おやじは、ひいては「導く父」でもある。人間のために悪い妖怪を退治する鬼太郎を、ブレーンとして支えている。戦後輸入されたアメリカの人気TVドラマの題名を借りれば、「パパは(妖怪のことなら)何でも知っている」からである。星一徹とは全く違う意味で、文芸評論家の江藤淳や江藤に依拠する社会学者・上野千鶴子のいう「恥ずかしい父」という類型には、決して当てはまらない。目玉おやじは、星一徹のようなトレーニングと称する児童虐待は全く行わない。子煩悩である。しかも、「女性の味方」であることを表明している(「墓場鬼太郎ー貸本まんが復刻版第2巻」角川文庫、2006年)。女子供にやさしく、女性差別をしないという点で、目玉おやじは日本の戦前的な「家父長」の正反対を体現している。目玉おやじは、子供にとって「都合のいい父」でもある。簡単に親孝行ができる。目玉おやじの楽しみである「茶碗風呂」にお湯をそそいであげるだけで親孝行できる。面倒な老人介護をする必要もない。「お化けは死なない、病気もなんにもない」からである。
 「巨人の星」のマンガは1966年から1971年まで「週刊少年マガジン」に連載された。TVアニメ化もされ、1968年3月30日〜1971年9月 18日によみうりテレビ系で、全182話が放映された。当時は国民的人気を博したが、とうに高度経済成長期を終えた今では、もうパロディにしかならないだろう。「ゲゲゲの鬼太郎」のマンガの第一シリーズは1965年から1969年までやはり「週刊少年マガジン」に連載された。TVアニメの第1作は、 1968年1月3日〜1969年3月30日にフジテレビ系列で、全65話が放映された。その後も、2008年現在まで1960年代・1970年代・ 1980年代・1990年代・2000年代と、各年代ごとに5つのシリーズ作品が製作されている。現在の日本のテレビアニメ作品としては最多の、4回のリメイク・5度のアニメ放映をしているのである。「巨人の星」とは対照的に、現在もなお子供たちにたいへん人気があり、もはや現代日本を代表するアニメ作品のひとつと称してもいいだろう。
 星一徹を日本の「近代的父性」の典型とするならば、目玉おやじは「近世的=ポストモンダン的父性」の典型、「もう経済成長しない日本」社会にふさわしい父親像といえるだろう。近年、林道義氏の「父性の復権」(中公新書、1996年)のベストセラー化を契機として、日本社会では、政府が男女共同参画社会を掲げる中で、「父性論」が活性化されている。しかし、林道義氏のような保守派の父性論や団塊の世代の父性論は、どこかで星一徹的な「鍛える父」(「駆り立てる父」)の影を引きずっているように思われる。しかし、現代日本の子供たちが求めているのは、目玉おやじ的な「見守る父」(「導く父」)ではないだろうか。


ー子供たちは見られるべきであって聞かれるべきではない(R・D・レイン『自己と他者』みすず書房、1977年、p.165)