<疑似主体化>の試みとしてのDV

 けれども、殴るという行動は、そうした発達過程に原因のある行動というよりも、自己を維持するための手段として学習された行動である。バタラーたちは、彼らの不安定な自己像が壊れないようにするために、暴力という野蛮な行動に依存している。彼らが、力に満ちていて統一された自己を感じる唯一の瞬間が、妻や家族を殴っているときなのだ(ドナルド・G・ダットン「なぜ夫は、愛する妻を殴るのか?ーバタラーの心理学」作品社、2005年(原著1995年);pp.11-12)。


「恥辱」の影響ーアイデンティティへの虐待
 父から受ける恥辱とは、男の子が受ける最悪のできごとである。それは、悪いことをして咎められるのとは違う、とても惨いことなのだ。恥辱は、特定の行為に対する罰というのではなく、心全体を否定するような罰である。つまり、「お前は悪い子だ。お前は何の役にも立たないんだ」と言われることは、「私はお前がしたことがよいと思わない。しかし、それでも変わらずお前を愛している」という言い方とは全く異なることである。子どもは、お前は価値がない、ということを教わる。この恥辱の感覚は、生涯にわたって息子に影響を与えることになる。恥辱は、自己全体への暴力である。屈辱的な出来事は長く記憶に残る(同上;pp.122-123)。