「永遠の0」と「男同士の絆」―愛と勇気とホモソーシャル―

 映画評論家の佐藤忠男は、男性に<私の領域>(「女の世界」)の切り捨てを要求する<忠義>の論理を嫌い、代わりに「男性が<公の領域>に生きようとすればするほど、<私の領域>に対する負い目を増していく」ことを「情感的論理の世界」と呼んで称揚しました。「永遠の0」は絵に描いたような「情感的論理の世界」を描いた映画であり、<任侠映画>が大好きだった団塊の世代に属する男性知識人にとっては、批判しにくい作品でしょう。しかし、佐藤忠男の議論は「男性中心主義」(「(命を助けてくれた戦友に対する)義理と(妻娘のために生き延びたい)人情を秤にかけりゃ、義理が重たい男の世界」)を払拭できていません。フェミニスト理論家であったイヴ・K・セジウィックの提出した「ホモソーシャル(男性間の非・性的な絆)」概念を理解できていないのです。
 「永遠の0」は、「右でも左でもない」かもしれませんが、あくまで「男目線」に徹した作品であり、結局は「男たちの国家」(Manly State、シャルロット・フーパー)に利用されてしまう作品だと思います。
 『アンパンマンのマーチ』を作詞したやなせたかしさんに抗議が来た事があるそうです。歌詞の「愛と勇気だけが友達さ」の部分が友達を否定してるのではないかと。やなせさんは丁寧にこの詞の意味を解説してくれてる→「戦う時は友達を巻き込まず、自分1人のつもりで、お前も一緒に行けと道連れを作るのは良くない」。「ホモソーシャル(男性間の非・性的な絆)」を特権化することを否定しているのだと思います。「戦友」という概念をラディカルに否定しているのです。ジャムおじさん以下、アンパンマンの「親密圏」は男女キャラが入り交じっています。
 水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』もそうですが、やなせたかしの『アンパンマン』も、戦場で極限状況を体験した従軍経験者だからこそ書けた反戦マンガだと思います。ジェンダーフリーな『アンパンマン』は、戦争賛美には利用できないでしょう。


目玉おやじ復権
http://d.hatena.ne.jp/kkumata/20080610