武士道病と任侠幻想
氏家幹人さんの「サムライとヤクザ」(ちくま新書、2007年)を読了。江戸時代の史料の歴史学的な分析を通じて、次のようなスケールの大きい仮説を提出しています。
自分たちはまぎれもない武士なのに、町や村の荒くれ男たちと比べると男(戦士)として明らかに劣っている。身体的な頑丈さにおいて、それにもまして命知らずな闘争精神において―。
武威の外部委託と、武士における“男としての引け目”が、明治以降たぶん現代に至るまで、サムライを自負する政治家や企業戦士が、アンダーワールドの男たちを毅然と排除できないばかりか、ややもすれば彼らと“共存”し、その力を“活用”する慣習を生んだ歴史的素地だったのではないか。私はそう推理するのである(p250-p251)。
江戸時代に官僚化した武士が「暴力」を外部委託したことが、ヤクザへの心理的コンプレックスを生んだと見るのです。そして、現代の日本人の任侠精神に対する思い入れについては、次のように分析しています。
ならばこう言い換えよう。そのほとんどが虚像であると半ば承知の上で、ヤクザの任侠精神に喝采を惜しまないのもまた、この国のまぎれもない伝統であった、と。
たぶんに虚像である新渡戸の武士道論が、なぜか世界に誇るべき日本精神として知識人の間で受容されたように(私はいまだに止まらないこの奇妙な症状を、欧米コンプレックスがこうじた“武士道病”とひそかに呼んでいる)、かならずしも事実に基づいているといいがたい任侠精神の伝統もまた、この 国の人々の間に広く深く浸透してきたのである。そう、たとえクールなヤクザが、「ケツがこそばゆくなる」と感じたとしても(p244)。
映画評論家・佐藤忠男さんの「原始任侠道」に対する思い入れも、こうした「任侠幻想」の一種として捉え返されるべきものでしょう。