男性/ヤクザ/部落/ロスジェネ

―「男のプライドは悪魔の発明品」(エリカ・ジョング『飛ぶのが怖い』)

 私が部落にいて、泉海節一に聴いた話で感銘を受けましたのは、昔、部落の子はいっぱいボロボロ自殺していくというんですよ。その最大の理由として、世間では部落はたいへん貧しいから自殺者が多いんだとよくいわれたんです。(中略)ところが、死ぬ最大の理由は、人間としての誇りですね。これを奪われるからそのときに死ぬんだとね。例えば、女でいえば、貧しいから、飯が食えないから、着物が着れないからといって死ぬ子は誰もいなかった。まず九九パーセントが、明日女郎に売られるという日に死んだんですね。(中略)
 (中略) 
 男の場合は、それに匹敵するのがヤクザという組織なんですね。世間で、俗に「男になる」という表現がありますけど、男は女と違った意味で非常にメンツっぱりでしょう。それで、お前なんかこっちくるな、あっち言ってずーっと百姓やってろというふうに言われたときに、はい、わかりましたと泣き泣き、一生うだつ上がらない百姓をやれれば問題はないんですが、そこには男としての誇りはないですね。それじゃあかなわんわけですよ。人間はやっぱりどこかで、絶対に胸を張って歩く場所がいるんです。もう間違いなく。だから、そういう場所がほかの市民社会にあるやつはヤクザになる必要はないんですよ。だけど、お前は学校に来るな、お前は職場にくるな、お前は就職するなというふうに地域社会から、その人たちは一生ドブネズミのようになるわけです。それは、俺だってやはり人間だといいたいでしょう。そのことが一つの集団を形づくっていきます。
 (中略)
 ヤクザの出身母体を見ましても、関東から北は、当然東北の僻地寒村になります。関西から西のヤクザは被差別部落の出身者が圧倒的に多い。友人の猪野健治の分析だと、七五パーセントくらいが被差別部落の出身者であると。(中略)そういう欠損家庭の息子たちがあとの二割。それからあとの五パーセントが、面白いことに、わりに金持ちの息子たちなんです(須藤久『任侠道ー叛逆者の倫理』二十一世紀書院、1989;pp.240-243)。


 「オタクにもなれなかった」男性による、オタクをターゲットとした秋葉原無差別殺人事件ーこれも一種の「民衆相克」でしょうーを見ると、ロスジェネのプレカリアートの男性たちには、もう「ヤクザになる回路」すら絶たれているのかもしれません(近代ヤクザを肯定しているのではありません、念のため)。こういう男性に、「承認」という形で救いの手をさしのべられるのは、やはり「民衆宗教」でしょう。被差別部落出身で元ヤクザの男性というのは、おそらく日本の新宗教信者のひとつのパターンでしょう。