<疑似主体化>の試みとしてのDV

ー(熊田註;DVの)加害男性が自分の罪、責任を認めていくのに味沢さんはどう導いているのですか?
味沢 男性が加害者性を認めないのは、自らの被害者性を認めないからだと私は仮説をたてています。男にとって被害者であることは敗者であることであり、屈辱です。そんな自分を認めることができないから、自分に加えられた加害という現実も「教育」とか「愛」とか、「伝統」とかということで自ら正当化してしまいます。
(中略)
ー加害者の人格の特徴は何でしょうか?
味沢 自尊感情が低く、他人の評価に依存する傾向の強い人が多いのではないか、という印象があります。そんな人は妻や恋人が、自分の努力に対して正当な評価をしていないと感じたら、自己嫌悪なり、他者憎悪に容易に転化するのではないか、と思います。彼にとって傷ついた男のプライドを回復させるのは、怒りによる暴力しかないのでしょう。負けるな、泣くな、やり返してこい、と何度も言われて育ってますから(豊田正義『DVー殴らずにはいられない男たち』光文社新書、2001年;pp.198-199)。


 豊田さんの本は、DV加害者男性についてのルポルタージュとして貴重です。
 DVは、(妻や恋人に正当に評価されていない、と感じることなどによって)<恥>を主観的に経験した男性が、暴力を<行動化>に移すことによって、擬似的に「主体化」して<名誉>を回復しようとする自己破壊的な空しい試みなのかもしれません。逆に、新宗教の体験談に出てくるような、「妻が夫に感謝するようにしたら、夫の暴力がおさまった」という話も、こんな対応をしていていいのかどうかは別として、実際にある話なのでしょう。