男性の<性>の謎をめぐって

 私は、1年に2本、修士論文レベルの文章を活字化することにしています。次は、来年の4月に論文を提出します。そろそろ、内容を考えなくてはいけません。フェミニストの問題提起に答えて、「一部の男性はなぜ愛する妻子に暴力をふるうのか」という<謎>に挑戦してみようと思います。精神科医中井久夫さんが展開している「<恥>と<酒>」「<恥>と<暴力>」の悪循環(「恥のサークル」)に関する議論がヒントになると思います。


(前略)嗜癖の最大の欠点は、同じ結果を得るためにますます多量の嗜癖行為が必要なことである。この点では暴力も似ていて、家庭内暴力であろうと、教師の暴力であろうと、嗜癖的悪循環に陥る傾向から逃れることは難しい。始めは、思いあまって行った暴力行為が、あらゆる些細なフラストレーションの解消に使用される。と同時にますます大規模な行為が、かつては些細な行為のもたらしたと同じ効果をかろうじてもたらすのである(中井久夫中井久夫著作集5ー病者と社会』岩崎学術出版社、1991年;pp.135-136)。


 事後的な言語化の意味と効用について述べたが、皮肉なことに、行動化自体にもまた、少なくともその最中は自己と自己を中心とする世界の因果関係による統一感、能動感、単一感、唯一無二感を与える力がある。
(中略)
 DVにおいても、暴力は脳/精神の低い水準での統一感を取り戻してくれる。この統一感は、しかし、その時かぎりであり、それも始まりのときにもっとも高く、次第に減る。戦争の高揚感は一ヶ月で消える。暴力は、終えた後に自己評価向上がない。真の満足感がないのである。したがって、暴力は嗜癖化する。最初は思い余ってとか論戦に敗れてというそれなりの理由があっても、次第次第に些細な契機、ついにはいいがかりをつけてまでふるうようになる。また、同じ効果を得るために次第に大量の暴力を用いなければならなくなる。すなわち、同程度の統一感に達するための暴力量は無限に増大する。さらに、嗜癖にはこれでよいという上限がない。嗜癖は、睡眠欲や食欲・性欲と異なり、満たされれば自ずと止むという性質がなく、ますます渇きが増大する。
 ちなみに、賭博も行動化への直行コースである。パチンコはイメージとも言語化とも全く無縁な領域への没入であるが、パチンコも通常の「スリル」追求型の賭博も、同じく、イメージにも言語化にも遠い(中井久夫『徴候・記憶・外傷』みすず書房、2004年;pp311-313)。


生物学的なレベルでは、男性の<性>と<暴力>は、親和性があるどころか、相矛盾している可能性があります。


(前略)強姦の際に勃起するのはごく一部の男性であろうと思えならない。暴力をふるう時には勃起できないのが生理的に順当だからである。射精に至っては、交感神経優位系が副交感神経優越系に急速に交代しなかればならず、それが暴力行為の最中に起こるのは生理学的に理解しがたい。しかし、そういう男がありうるのは事実で、古典的な泥棒は侵入してまず排便したというが、それと似ていようか(中井、同上;pp.314-315)。


 軍服を着せられているということは、要するに、兵隊にならされているということだ。兵隊とは、つまるとこり、「もの」にほかならない。主体性を剥奪されて客体と化せしめられた存在だ。この点では、「慰安婦」もおなじ存在であるのだろう。
 ただ、「慰安婦」がほとんど絶対的に客体と化せしめられているのに対して、兵隊のほうには、つかのまであれ、失われたその主体性(個人・自由)をとりもどしえたかのように幻覚しうるときがある。性的行為においてだ。
 そこにおいては、彼は、かろうじて、「兵」という客体ではなく「男」という支配的主体ー快楽を味わいうる自由な個人ーでありうるかのように感じることがーよし錯覚であれーできる。また、そうありたいと望むからこそー意識をするとしないとにかかわらず、兵隊は「女」である「慰安婦」を求めるのだ(彦坂諦『男性神話』径書房、1991年;p.26)。


強姦好きの日本兵も、絶えず前進行軍しなければなりませんから、隊列をくずすような強姦はあまりできないんです。その替わり私たちの部隊のやり方は、女の下腹部だけ裸にして、そこにニンジンやイモやコウリャンがらを突っこんだりして遊んでいました。ニンジン、サツマイモといってもそれは近くの畑にころがっている泥土のついたままのもんです。こんな具合にすると、本当に苦しがってもだえ死ぬ女性がどんどん出ました。・・・・・・実はそれに、私も少しの良心の呵責もなく加わっておもしろがっていたんですから・・・・・・[証言者は、菊地上等兵(当時)、熊沢京次郎『天皇の軍隊』所収](同上、p.161)


 上記の証言は、戦時性暴力が生物学的な欲求とは無関係なものであることを示しています。「男性兵士は<死>を意識すると子孫を残そうという本能がはたらいて<性行為>したくなる」という戦時性暴力に関する神話が存在し、小林よしのりも「戦争論」でこの神話を利用していました。しかし、これは嘘だと思います。
 信田さよ子さんが、『加害者は変わりうるか?ーDVと虐待の現場をめぐって』(筑摩書房、2008年)で報告している、1995年の阪神淡路大震災のときに被災地で頻発した強姦事件も、「主体であることは名誉、客体であることは恥」という近代的な男性の性規範を内面化しており、大災害によって主体性を奪われて「<客体>化された」と感じた男性たちが、レイプによって「<主体>性を回復しようと試みた」のだ、と解釈できるのではないか、と思います。