又吉直樹とカフカ

 以前、カフカの『田舎医者』をアニメーションにした監督と対談した際、「僕、カフカ読むと笑ってしまうんです」と思いきって幼稚なことを打ち明けてみたところ、「カフカも友達に自作を読み聞かす時は爆笑していたらしい」と教えていただいた。嬉しかった(又吉直樹『第2図書係補佐』幻冬舎よしもと文庫、2011年、p163)。


カフカのユーモアを解するとは、又吉氏は本物の本好きですね。

「静止の心」の重要性

「いくら移動を重ねても、ただ動きまわるだけでは本当に動いたことにはならないのだ。肝心なのは静止の心である。ユープケッチャはある哲学、もしくは思想を表す記号だと思う。」(安部公房


安部公房は「ひきこもり」(笠原嘉のいう「退却神経症」)の大量出現を予言していた、と安部公房を安っぽい予言者に還元するつもりはありません。一部の「ひきこもり擁護論」に味方するつもりもありません。
 しかし、近代という時代が単に「動きまわる」ことを「動く」ことだと錯覚し、「静止」しなければ「動く」ことにならないことを忘れていた時代であったことは、確かだと思います。

太宰治の「恥の多い生涯」について

 もし太宰治が小説『人間失格』で、「恥の多い生涯を送って来ました」ではなく「罪深い生涯を送って来ました」と書ける作家だったなら、自殺せずにすんだでしょう。才能豊かだっただけに、残念です。


小説『人間失格』における宗教心理の一考察
http://d.hatena.ne.jp/kkumata/20090721/p1

女子学生の村上春樹評

(前略)村上春樹の小説を少し読んだのですが、イライラしてきて読む気になれず、嫌悪感がはんぱなかったのですが、その理由が反フェミニストで男性優位があたり前だと思っている、一方的さが、嫌いなのだなとハッキリわかって少ししっくりしました。けれど、男女平等や女性の社会進出をうたっている日本や欧米でなんで男性優位の思想をもっている村上春樹のそれがモロに出てる小説(熊田註;おそらく授業で取り上げた『ノルウェイの森』のこと)があんなに人気なのかわかりません。世の中かなり矛盾しているなと思いました(私のジェンダー研究の授業における女子学生の小レポートより)。


村上春樹の女性観は「聖母か娼婦か魔性のレズビアンか」だ、と教えたことを受けてのレポートです。心強いです。

 

カフカとアンパンマン

 フランツ・カフカの小説『変身』は、「近代人の疎外」を描いた作品などではなく、「食べる」ことをめぐる超現実主義的な思索です。カフカのこのテーマは、晩年の傑作短編『断食芸人』に引き継がれていきます。P・K・ディックのSF小説に「カフカのエンターテイメント版」という側面があるように、やなせたかし原作の「アンパンマン」には、「食べる」ことをめぐる超現実主義的な思索という点で、「カフカの幼児向け版」という側面があると思います。

アンパンマンの孤独−愛と勇気とホモソーシャル
http://d.hatena.ne.jp/kkumata/20140329/p1

『女のいない男たち』と「女ぎらい」

 村上春樹の新刊『女のいない男たち』を読みました。予想通り、テーマは<ホモソーシャル>(男性間の非・性的な絆)でした。やれやれ。


 すべての女性には、嘘をつくための特別な独立器官のようなものが生まれつき具わっている、というのが渡会(熊田註;語り手の男性の男友だち)の個人的意見だった。どんな嘘をどこでどのようにつくか、それは人によって少しずつ違う。しかしすべての女性はどこかの時点で必ず嘘をつくし、それも大事なことで嘘をつく。大事でないことでももちろん嘘はつくけれど、それはそれとして、一番大事なところで嘘をつくことをためらわない。そしてそのときほとんどの女性は顔色ひとつ、声音(こわね)ひとつ変えない。なぜならそれは彼女ではなく、彼女に具わった独立器官が勝手に行っていることだからだ。だからこそ嘘をつくことによって、彼女たちの安らかな眠りが損なわれたりするようなことは―特殊な例外を別にすれば―まず起こらない(村上春樹「独立器官」『女のいない男たち』文藝春秋、2014年(初出2014年)、p164)。


 絵に描いたような「女ぎらい」(ミソジニー)です。ちなみに、成功した美容整形外科医である渡会の秘書は、ゲイという設定で、「同性愛嫌悪」(ホモフォビア)もきっちり書き込んであります。