平野楢造と天理教の国策迎合

https://note.com/yamashinakankyo/n/nd8f3413bbc6e

より転載

 

付け加えて書いておくなら、この平野楢蔵中山みきの死後、古くからの信者の人たちに「天皇陛下のことを神さんと認めないとは何ごとか」「お道がつぶれてもええんか」と日本刀を突きつけて脅して回り、教団に国策迎合の「応法の理」路線を歩ませてゆくための行動隊長的な役割を果たした人である。やがて日清·日露戦争が始まって帝国主義の時代が本格化してゆくと、日本人が銃をとって外国の人々を殺しに行くことを止めようとしたどころか、「よろこんで」いた人である。ホメられた話ではないどころか、最悪だとしか言いようがない。中山みきが死んでそんな楢蔵のことを「叱って」くれることのできる人がどこにもいなくなってしまったことは、この人自身にとっての最大の「不幸」だったと言えるだろう。とはいえそうした人物の中にも、天理教で言うところの「助け一条の真心」が出発点においては確かに存在していたわけであり、どうしてその真心をもって朝鮮や中国の人々とも向き合うことができなかったのだろうかと私はいつも思う。

 

*「侠気」は「暴力」と不可分な関係にあります。「戦前」とも評される現代日本の社会状況下で、「侠気」を無自覚に礼賛するのは、危険だと思います。