「基本的な体験」とジェンダー
文明がある意味で仮構(フィクション)といわれるのは、人間の間に人間らしい関係が成り立つために、そのような生の剥き出しの、野獣的ともいうべき側面を遠ざけ覆い隠すことが必要だという意味である。しかし、また、いかに衝撃的であろうとも、人間が通ってゆかねばならない基本的な体験がいくつかあり、それが人生の「ある」(原文傍点)骨格となっているのではなかろうか。人類学者マーガレット・ミードは、女性の人生が男性よりも確実なものである理由として初潮・結婚・出産、という、衝撃的ではあるが、生命とつながる基本的な体験によって段階づけられていることを挙げている。たしかに、男性の人生は、生命的なものに対してははるかに間接的で、曖昧な段階しかないといいうるだろう。
(中略)
おそらく、「疎外」のいちばん奥深く、目に見えない形は、「『基本的な体験からの疎外』(原文傍点)」ではなかろうか。われわれは、この否定的な潮の流れに対して何かを対抗させながら、つまらないものに足をとられず、また生きがいを求める人間の底力を放棄せずに、自分の人生を組織してゆくべきだろうか。それは現代の人間に課せられた最大の課題であり、社会の基本的な未来像を含む、「人間的なものの一切」は、この課題とは無縁ではあり得ないだろう(中井久夫「現代社会に生きること」『関与と観察』みすず書房、2005年(初出1964年)、pp.151-153)。
*おそらく、現代社会において、男性は女性よりも、「基本的な体験」から「疎外」されがちなのでしょう。