生きている行動/死ー回避行動

『安永浩のホームページ』より転載 http://www.yas73.jp/newpage10h.htm
 
 以上の様に、私はウォーコップの概念を、分裂病の領域に存分に適用したのですが、私は今日の講演では、本来、ウォーコップが他のどんな領域にでも、お役に立つのではないか?ということを言いたかったのです。全く力は足りませんが、残りの時間を使って、二、三の点を述べてみたいと思います。
 先ず、先にもちょっと触れました「生きている行動」と「死-回避行動」のことについて。実は日本における私の一般読者から、「おもしろい」という反響のもっとも多かったのはこのテーマでした。原著の生物学の章に、私が戯れに猫の章、と呼んでいる一ページほどの文章があります。追われているわけでもなく、餌を追っているわけでもない、一匹の猫の、生き生きした挙動の描写と、あとにちょっとつけた皮肉のきいたコメントが印象的です。ともかくそういう生きものの姿を見るのは気持ちよいことです。人間の行動でも同じです。理屈がないならないでよい、合理性がないならないでよい、無償の愛でなければ愛ではない。--------つまり「生きている行動」とは、生きものが、ただAの発出、消費だけを楽しむ、という類の行動です。
 それはただ、「やりたいからやる」と言えるだけで他の理由はありません。これに対して、「死-回避行動」とは、「本来やりたいわけではないが、やっておいた方が、将来の苦労を、B側からの大きなエネルギー強要を避けられる」という趣旨の行動で、つまりその方が合理的、経済的、と呼ばれ得る様な行動です.回避すべき極致は死ですから、そう名づけられました。
 「生きている行動」の楽しさについては、これ以上言わなくても皆様十分わかっておられると思いますので、むしろ他のことを述べます。ウォーコップは反・「合理主義」者ではあっても、反・「合理」主義者ではないのです。あらゆる行動において、死−回避行動の方も全く随伴しないわけにはゆかないのです。パターンの原則はすべてを覆います。結局人間の行動は、生きている行動/死−回避行動のパターンをなします。ウォーコップの精神衛生のよさは、こうしていつでもここへもどってこれることで、単なる生命礼賛ではありません。更に注意すべきはこの二種類の行動は、両方がともに十全となる、ということは有り得ない、という認識です。もし一方が十全となったとすると、まさにそれ故に、他方にとっては極めてまずい形になる、ということなのです。説明文脈の最上のものが、了解文脈の最悪のものになる、などは、そのわかりやすい例ですが,もっとわかり難い例も多いのです。ここまでよくつかまないと、ウォーコップをただ表面的にしか理解しないことになります。「死」の衝撃がなければ「生」もありません。人生がパターンだ、ということは、喜ばしさの中に泣きたいような悲しみがあり、快活さの中に厳粛さがある、そして究極的には、「何ものかある」にもかかわらず「晴朗な」(serene)心境でありうる、ということです。 
 このことが実際上最も混乱しやすいのが社会学の領域です。「個人」vs.「社会」というパターン問題があります。
 ここでは、社会というものがあまりにも大きく見え、個人が極めて小さな一単位に見える、という印象があるので、とかく社会が「全体」に、個人が「部分」に、あてはめられてしまいがちです。説明文脈ならこれにも意味はあるのですが、パターンでは個人が優先します。個人が集まれば社会になるのであって、どの個人でもない様な社会というものが先ずあって、それが個人をつくるのではないのです。
 ここで社会というところには、あらゆる組織の名、たとえば国家、なども代入することができます。これは見逃すにはあまりに重要なテーマです。何故なら近代の戦争は、「国家」が始めるのであって、個人が始めるのではないからです。人間のちっぽけな自我は、この相容れない二つのもの、個人の「主体性」と「社会の一単位性」とを何とか両立させようともがくけれども、いやしくも生きものが、この試みに完全に成功することは不可能である、とウォーコップは言います。
 問題は、それがいかに不可能であっても、この識別が大切だ、ということです。現代の社会全体に瀰漫する何とも言えない不満、やるせない怒り、そしてその結果生ずる面従腹背シニシズム、時折り突発する不可解な暴力、などは、その二つの混同、更に言えば逆転、(これはもちろん分裂病における肉に食い込んだ逆転とは違うレベルのそれですが)つまりパターンのB面を正義、美徳、善、として、その前に膝まづいてしまう慣習、本能的に感ずるそれへのくやしさに由来する、とウォーコップは言うのです。B面、即ち量、論理、危険予測、平等、最大多数の最大幸福、などなどのスローガンもそれに入ります。膝まづくのも無理からぬことではありませんか?量の面とは、もともと万人に共通なこと、それ故反対はできない、同意を強制される、ということを意味していたのですから。ましてやそれは文明、学問の形では、ものすごいまでの成功をおさめてきて、今や我こそ良識、という顔をしているのですから。実際組織、例えばお役所から量的に強制されるくやしさの中には、自分だって役人になって人に強制しようと思う時は同じこと、量の論理を使うだろう、とわかっている、という、自縄自縛的なところが含まれているのです。そんなところが見えていないと、量の論理は、まさにその長所ゆえに、どの個人の体験「質」の豊かさにも寄与しない、非人間的なものになり終わるのです。
 量の論理のことはまた「遊離の原理」とも呼ばれます。つまり了解主体を離れれば離れる程、最上の結果が得られるであろう、と思い込むこと、それは人類の犯した最も油断のならない誤りであり、その誤りは更に一歩進んで、知的操作がその様にして行われ得ると想像することでさえある、と彼は言います。
 ウォーコップは全体主義国家のイデオロギーのことを言っているのではありません。戦後間もない時期であったにもかかわらず、見事な位そんなことはもう問題にもしていません。彼の問題意識は明白に、「われら民主主義の時代の」問題として述べているのです。
 心裡学的にはこれは一種の抑圧の問題の様に思われますが、フロイトが突き崩したヴィクトリア朝的道徳などのレベルではないでしょう。非常にデリケートな、しかも根源的な問題だと思います。これは今日の政治、家庭、教育、治療、ひょっとすると犯罪などを考えるにあたり、一つのヒントにならないでしょうか?どの分野を見ても、文明の量化は、大変な勢いで進んでいるからです。
 ウォーコップは簡単な処方箋を一つ示しています。それは根本的には、パターンを思い出す、ということに尽きるのですが、随伴するB面については、これを正義とか真理とかにみなして祭り上げるのではなく、単純に regrettable inevitability だ、と思え、と言うものです。私は日本人ですので、この英語の語感はよくわからないのですが、実際患者との対話でこの言葉を使って説明しますと、たいてい笑います。同時にほっとした顔をして受け入れてくれるのです。
 ここで彼の著書の題名、deviation into sense についても触れておきましょう。これはドライデンの風刺詩の1節からとられています。ドライデンはもっともらしい、良識の権化のようなタイプの友人を皮肉って、あまりにも正気へ逸脱した奴、という意味で使ったのです。つまりこの題名でのsense は、世間で言う正気、合理性、量の論理を指しています。
 最後に美学について述べます。原著の実質最終章であるこの章は、本書の圧巻であると私は思っていますが、要約はむしろ一言でできます。美、或は芸術とは、見える、(或は聞こえる)パターンである、というのがそれです。日常的な意識では、物は物としてしか見えません。美、とは物が物としてではなく、パターンとして、それも良いバランスのパターン性そのものとして見えてくる、という、喜ばしくもまた悲しい、稀有の瞬間の体験様式です。芸術家の役割は、とかくパターン性に気づかない凡人にも、それを感じやすい様に、かたち又は音を、配置してくれる、という点にあります。
 パターンですから、あまりに質的でもあまりに量的でも、この体験は成り立ちにくくなる、ということや、その量的成分が重いか軽いかによって、重たい芸術、軽やかな芸術、が有り得ること(チャイコフスキー対バッハ、レンブラントマチス、ミロ、シェークスピア対ブレイク、その他小さくても愛すべき無名詩人や職人たちの作品などを考えてみて下さい。)ウォーコップはいろいろ述べていますが、量がすべて生命の反対物、生命にエネルギーを強要する、という点から考えますと、軽やかな芸術の方が、より洗練された芸術である、と、ウォーコップは言いたい様です。
 それにしても、哲学が千言万言を費やしてやっと到達したパターンを、芸術家が一瞬にして見せてくれるのならば、哲学の必要はどこにあるでしょうか?そうです。これが哲学と美学との関係です。この問題がこの様にきれいに、一貫した論理で説かれているのを、私はウォーコップの前にも後にも見たことがありません。
 先に、美学の章は実質的最終章、と申しました。実は形式的最終章は一つのアレゴリー、哲学的寓話、というかたちで結ばれています。Aの化身である、無償の愛の妖精ローズボーンと、Bの化身、しかつめらしい、そしてもちろん-------男性の妖精エレンチャスが出てくる、微笑ましいお話です。一個の人間、かつ思索者であったウォーコップは、ほとんど必然的にこの様な一つの著書のかたちを生み出したのでありましょう。
 私もそれに倣いたいのですが残念ながら芸術家の力量がないので断念致します。その代わり、と言っては何ですが、皆様せっかく日本に来られました。日本も今はいささか近代合理主義、量の文化に毒されておりますが、それでも長い歴史の中で培った美、殊に軽やかな種類の美感覚はかなり保存されており、日常生活の中にひそやかに息づいていると、私としては思っております。どうかそれらを、あちこちで見つけて、楽しんで戴ければ、と願っております。さて本当に最後に、いろいろと申しましたが、所詮私は哲学にはアマチュアの人間でありまして、専門家の皆様からすれば、足りないところ多々あったかと存じます。それをお許し願い、私の言いたかったところをお汲み取り下さいます様、心よりお願いいたしまして、今日の講演を終わらせて戴きます。