男性性セラピーの限界について

 村瀬さんの統合的アプローチは、最初から生活の肯定的な面に重点を置き、具体的な方法でそれとの接点を見いだそうとする。私が最初に村瀬さんのお宅にうかがった時には、障害児を招いて、共にお菓子を作り、お料理をし、共にいただくことをなさっていた。それは毎常のことであるらしかった。そういえば、似顔絵の描き合いも早くなさっている。後に二重障害の聾唖者となさったことである。
 当時はずいぶん大胆なことと思った。一度だけ私は村瀬さんの治療報告にコメントしているが、そこでWagnisというドイツ語を使った。それは、敢えてする大胆さである。意識的な判断の上でタイミングを選んでふつうはいない大胆な行為に足を踏み出すことである。
 当時は、患者と治療者とが、両者の垣根を撤廃して共同生活を営む試みが行われて、必ずしもうまく行かないことがわかってきた時期である。しかし、それとこれとははっきり違う、と思った。
 どう違うのか。もちろん、村瀬さんは二十四時間、生活を共にしたりなどなさらない。植物を育てる場合にたとえれば、他の方法では水がはいってゆかない隙間がみえた時に、そこに水を行き届かせるために、相手を選び、タイミングを選んでなさるのである。それは、手仕事であり、食べ物をつくり、いただくことであり、その他その他である。水びたしにするのが植物を育てるよい方法ではない。
 あの時代、患者との共同生活を営んだ治療者たちはみな男性で、男性文化の中で育って、まず間違いなく、お菓子を作ったり、料理をしたりすることはできなかった。この無能力は生活者としては奇形的であり、だから、生活を共にするとは、語り合い、叫び合い、抱き合うこととなったのであろう。健康な営みを中心に据えず、病気を据えている点では従来の医療と変わらないということもできよう(中井久夫「村瀬嘉代子さんの統合的アプローチに思う」『日時計の影』みすず書房、2008年(初出2006年)、pp.100-101)。


メンズリブ運動を主催なさっている京都大学伊藤公雄氏には悪いけれども、アメリカの男性学の教科書には、「男性性セラピーは基本的に保守的である」と書いてあります。上のような事情があるからでしょう。