なぜ紅白は、演歌歌手の後ろにアイドルをはべらせるのか

http://bylines.news.yahoo.co.jp/takedasatetsu/20140101-00031199/ より転載
なぜ紅白は、演歌歌手の後ろにアイドルをはべらせるのか


 31日のNHK紅白歌合戦を総括するためには、綾瀬はるかの危なっかしい司会、「あまちゃん」の157話、大島優子AKB48引退宣言を語るだけでは足りない。ここでは、「演歌勢の後ろに常にアイドル勢がかり出されていたこと」のみから考えてみたい。


「増殖するアイドル枠」にサポートされる「残された演歌枠」


 演歌歌手にただただ歌ってもらうだけでは若い視聴者を他局に奪われてしまうのでアイドルを、という趣向は今に始まったことではない。しかし、「AKB48グループ」の巨大化、「ももいろクローバーZ」持ち前の賑やかさを創出する安定感は年々増し、そして今回は「アイドルではないけれど」との前置きで女性版EXILEこと「E-girls」も加わってきた。こうして、後ろで何かをしてもらうための分母が最大化したわけだが、最大化したことでもろに影響を受けた演歌勢が、そのアイドル達に手助けしてもらうという皮肉な形が生まれている。
 初出場となったNMB48に続いた細川たかしは「浪花節だよ人生は 2013」を、歌い終わったNMB48にそのまま居残ってサポートしてもらう形で歌ったし、香西かおり「酒のやど」の後ろで踊ったももいろクローバーZは、自分のイメージカラーの和服を身にまとい、カット割り的にもすっかり主役を食ってしまった。伍代夏子は審査員の夫・杉良太郎の前で歌うという「環境設定」だけで十分ではないかと思えたのだが、ここでもやはり男装したAKB48渡辺麻友柏木由紀らを従えていた。


「まぁ大晦日くらいは演歌を見るか」という柔軟性は消えたのだろうか


 「まぁ大晦日くらいは演歌でも見てやるか」という態度に始まり「まぁこういうのもあっていいよなニッポンは」とそれなりの納得をして年が暮れていく、これが、演歌の苦手な若年層が繰り返してきた、演歌を許す柔軟さだった。しかし制作サイドは、その柔軟さが若年層から消えつつあると判断しているのだろう。この判断には、今さらながら小林幸子美川憲一の豪華衣装対決の終息が影響しているかもしれない。「紅白名物、豪華衣装をお楽しみください〜」との前フリで登場したご当地ソングの女王・水森かおりは青ザーサイのような巨大ドレスで登場したが、小林や美川と違って確かな人気と歌唱力を携えているため、あくまでも衣装が主役になることはなかった。水森や氷川きよしのような現役感のある演歌歌手は少ない。それ以外の大御所演歌歌手には、1つのパターン、つまり、アイドルに後ろで何かをしてもらう、という措置がテキパキと導入させられることになる。


高級クラブで上機嫌になっている上客と女性陣の構図


 紅白の前半戦に登場する演歌歌手がアイドルにヘルプを頼むのは、この何年も続いてきたことだ。しかし、今回、後半戦に登場した演歌界の重鎮・五木ひろしが「博多ア・ラ・モード」を、HKT48などAKB48勢を従えて登場したことはなかなかショッキングだった。しかも、特に何かを踊らせるでもコスプレさせるでも無く、ただただはべらせて、サビのコーラス「ア・ラ・モード〜♪」を歌ってもらうという演出は、(誰しも思ったことだろうが)高級クラブで何本もロマネ・コンティを入れて互いに上機嫌になっている上客と女性陣の構図だった。「中州の いじわるなネオン」「二度と離さない フォールインラブ」との歌詞が、あからさまな構図のチープさをますます際立たせていた。
 今回の紅白で紅白引退を表明した大トリの北島三郎の前に出た演歌歌手を探せば、(白組では)五木ひろしとなる。つまり、演歌界の次なるトップは彼なのだ。その彼が博多の女たちにチヤホヤされて年越ししようとする姿を前にして、これが次なる日本の「まつり」の担い手だと言われれば、どうしたって大きな不安と不満が充満してしまう。


故・藤圭子いわく、「紅白って、いつ出てもくだらないことをやらせるんだよね」


 近年では少なくなったが、紅白歌合戦では歌と歌の間に小芝居やちょっとしたミュージカル、伝統芸能を披露するミニコーナーが用意されていた。「演歌にはとにかくアイドルを抱き合わせで」という演出は、あのクオリティの低さを思い起こさせてしまう。沢木耕太郎が昨年夏に飛び下り自殺により生涯を閉じた藤圭子と繰り広げた対話を一冊にまとめたノンフィクション作品『流星ひとつ』に、紅白が毎度用意してくる小芝居に苛立つ藤圭子の言葉が残されている。とっても痛快だ。
 「紅白って、いつ出てもくだらないことをやらせるんだよね。(中略)NHKって、個人的にはすごくいい人が、ほかの局よりも多くいるのに、あれはどういうんだろう。五十年のときも、ライン・ダンスをやれというの。その前後の何年間か、紅組女性チームの全員で網タイツをはいて、ライン・ダンスをやらせるというのが続いていたの。ダルマっていうんだけど、そういう姿でね。あたしは絶対にいやだって断ったの」。
 結局、藤圭子はそのライン・ダンスを断り、島倉千代子らと横に立ってそれを応援する役回りに変えてもらったのだという。
 紅白では出場回数によって楽屋の振り分けが決まると聞く(当選回数が多い議員が後ろの座席となる国会に似ている)。そういうわりかし古臭い力関係が残存していると考えると、大御所演歌歌手の後ろでアイドルが舞う、というのは、あの世界では建設的な振る舞いなのだろう。しかし、高級クラブでのチヤホヤを一方的に届けられる茶の間の気持ちを、もう少し考えてもらいたい。


演歌が持つ情感はNHKではなくテレビ東京に宿る


 NHK紅白と同時刻にテレビ東京で放送される「年忘れにっぽんの歌」は、毎年、紅白歌合戦から漏れた演歌歌手の姿を数多く見つけることができる。日本代表から漏れたJリーガーがオールスター戦に出場している時のような、「豪華だけど寂しい」独特の雰囲気が流れている。八代亜紀中村美律子田川寿美原田悠里大月みやこ堀内孝雄……AKB&EXILE&ジャニーズという三大勢力の拡大によって萎んでいく演歌の枠からこぼれた人たちの歌声が続く。しかし、その寂しげな舞台は、高級クラブで豪遊する「ア・ラ・モード」よりもよっぽど「演歌モード」である。この2月に北島ファミリーから暖簾分けの形で独立する小金沢昇司はなぜか「およげ!たいやきくん」を歌ったが、北島三郎の弟子となり北島家の庭掃除から本格的なキャリアをスタートした北山たけしは「親父の晴れ舞台」に立ち合えない寂しさを漂わせながら、NHKではなくテレビ東京で、情感たっぷりに歌い上げてみせた。


「とりあえずはべらせておく」、の対極にあった「あまちゃん」の演出


 「演歌の後ろに必ずアイドル」問題は、紅白運営側の悩みが具象化しているとも言えるのかもしれない。演歌勢をこれ以上切れない、しかし演歌をそのまんま歌わせるだけでは他局に逃げられてしまう。だから、アイドルをはべらせておこう、その場しのぎの応急措置が毎度回数を増やしていく。応急処置は、決して体質改善には繋がらない。
 紅白の「あまちゃん」コーナーが大きな感動を呼んだのは、あれだけの人数が総結集していたのにもかかわらず、どの出演者にも丁寧に役割が与えられていたから。だからこそ、また1つの物語が生まれたのだ。とりあえずはべらせておく、の対極にある演出だった。応急措置にアイドルを乱用するのをやめたほうがいい、ということを、たとえば、それぞれ個々人のみで歌い上げた能年玲奈橋本愛小泉今日子薬師丸ひろ子の圧巻のメドレーが教えてくれた。自前のヒット企画が自前の看板番組の在り方を問い質すような瞬間だったのだ。これを機に、はべらせるのを止めたらどうか。


*確かに、五木ひろしの時の演出はひどかったと思います。
―「女は男に媚び、男は社会に媚びる」(田中美津