天理教と「たんのう」の教え

http://www.softark.net/articles/m-0608.html より転載
「たんのう」とは


「たんのう」という言葉は天理教独特の言葉だと思いますが、教内では足納と書く場合もあります。
そして意味するところは……自分の身に降りかかる全ての出来事に対し、それを心の成人を促してくださる親神の思し召しと受け取り、満足と感謝の念を持って通る生き方を指して「たんのう」といいます。
何事も「成って来るのが天の理」と受け取るが良い、「不足は切る理、たんのうはつなぐ理」といったおさしづもあります。おさしづに書かれている身上事情の願いごとに対する答えの大半は、「たんのう」しなさいという答えです。
現在の天理教は心使いを直せば病気が治るとか、心定めという名のお金を支払えば事情が解決するといった現世利益を求める宗教になり下がっていますが、本来の教えはそういった次元の低いことではなく(中山みきさん在世当時は身上事情の相談は仕事場へ回れと言われ、飯降伊蔵さんが答えていました。)自分の身に何がふりかかろうともそれに負けずに生き抜く強さを身につけ、生きながらにして生まれ変わる教えです。そしてその教えの真髄がまさに「たんのう」という教えです。
私自身の「たんのう」の理解は、たんのうとは堪能だというふうに思っています。つまり味わうということです。人生において何事が起ころうともそれを味わい堪能する。それこそが生まれてきた理由だと思うのです。


神に委ねること


また、「たんのう」という言葉はイエスの次の言葉とつながるように思えます。
「父よ、できることならこの杯(さかずき)をわたしから過ぎ去らせてください。
しかし、わたしの願いどおりではなく御心のままに
ゲッセマネの祈りと呼ばれる言葉ですが、イエスは自分の身に何が起ころうとも全てを神に委ねています。「たんのう」という教えの核心部分は委ねるというところにあると思います。


*やはり、天理教の「たんのう」の教えは、中井久夫氏の「余裕(ゆとり)」の概念に影響を与えていそうです。