天理教と肺結核

http://michiaki-tenrikyo.blogspot.jp/2011/10/no54.html より引用


 簡単にまとめると恩に恩が重なり、いざりとなって苦しみ、出直したということになるが、問題は「いざり」となったことの意味、その姿と牛馬とがどのように関わるかということである。
 「いざり」となったことは、単に第一段階にすぎず、来世牛馬に生まれかわって、今までのつぐない、恩返しを無理やりさせられることになるのか、あるいは「いざり」という歩行困難な姿が牛馬とみえる道、「牛見たようなもの」であり、来世も人間として生まれかわることになるのか、そのどちらであるかという点である。
 『おふでさき注釈』によると前者ということになるが、私見によると後者の意味に解するほうが本教の教理より考えて、よいのではないかと思う。
 言うまでもなく、本教教理の根幹は陽気ぐらしで、いんねんの教理も、これに基づいて考えられねばならないが、従来のいんねん論は、どちらかというと、仏教的な因果応報と同じようなものとして、したがって牛馬道も文字通り牛馬道として、忘恩の徒にたいする罰のようなものとしてみなされ、説かれてきたように思う。
 たとえば肺病の人に対しては、肺病の病気によって牛馬の先き道、来世牛馬になることを知らされているのであるから、普通の人間らしい生活を捨て、土間にむしろを敷いて寝ることによって、いんねんの納消はできる、というような諭しがなされ、それなりの布教上の効果をあげてきたと思うが、このような説き方は、本教の教理の根本から少しはずれているように思われる。


*かつてはこんな布教をしていたんですね。