西原理恵子における「仕事の再神聖化」

1.
 ここで、執着気質的職業倫理(熊田註;十八世紀末から十九世紀初頭の日本農村の状況に起源をもつ、二宮尊徳的な「再建=立て直しの倫理としての勤勉と工夫」)が一般の労働倫理と等値されえないことが明らかとなろう。たとえば、はるかに古い層から出て今日なお生きつづけている「職人根性」を考えてみればよい。その対象へのあくなき問いかけ、彫琢、洗練、等々と対比するとき、執着的職業気質ははるかに不安定であり、ほとんんど一過性のものとさえ言いうるのである。そしてつねに対人関係を巻き込んでの努力、人と人との間にたちまじっての努力である。「職人根性」は、或るほんとうの父なる神といってもよい、かたくなに沈黙する絶対的なものの下における努力の倫理であり、執着気質的職業倫理は、そのような神が次第に見失われてゆく過程における倫理、世俗化された良心の倫理である。執着気質の人が「頼まれたら断れない」という裏には、世俗化された社会から自らが疎んじられることの恐怖がある。「職人根性」の人は、むしろ安易な依頼をかたくなに断わる(ママ)。執着気質の人は、自己の作品の是認の基準を究極的には周囲の人々に依存する。「職人根性」の人は、自らあきたらなければ、自己の辛苦の産物をためらうことなく破棄する(中井久夫「執着気質の歴史的背景ー再建の倫理としての勤勉と工夫ー」『分裂病と人類』東京大学出版会、1982年、p.53)。


2.
 二宮型の危機感と、それに対応する再建の努力、それを支える実践倫理は、おそらくかつて繁栄したことがないか、繁栄が伝説的過去にすぎない社会、あるいは徹底的に荒廃化をこうむってほとんど再建のいとぐちを遺さない社会には存在の契機をもたないだろう。近い過去に、それも特に立ち上がりをつきくずされた記憶のいまだ鮮明な社会、個人、集団において顕在化しやすいであろう(同上、p.58)。


3.
 日本文化における労働の特質として「執着性気質」を挙げることは、すでに下田の論文にあり、現在、半ば定説化している。しかし私は、十八世紀末、天明期以後の労働特性で、比較的浅層のものと考えている。それ以前に、「気ばたらき」的なものを美質とする層がある。もっとも底辺に近いものは、職人的器用さではなかろうか。日本人が労働から疎外された時行うのは、おどろくべき器用仕事である。たとえば、多くの捕虜収容所の記録、最近(一九八二年)のものでは荒木進『ビルマ敗戦行記ー一兵士の回想』(岩波新書、一九八二年)を参照のこと(中井久夫「サラリーマン労働」『「思春期を考える」ことについて』ちくま学芸文庫、2011年(初出1982年)、p.133)。


4.
 だが、(熊田註;現在は)新しい労働倫理はまだ確かなものとはなっていないというのが実際のところだろう。あるのは、従来の勤勉倫理の希薄化ないしは不適合、また様様な攻撃あるいは反動にすぎない。これらが新しい労働倫理といえるような特定の方向を紡ぎだしていくかどうかはわからない(杉村芳美『「良い仕事」の思想』中公新書、1997年、p.23)。


5.
「カネのハナシ」って下品なの?


 世の中の多くの人は、カネのハナシをしない。
 特に大人は子どもに「お金の話をするのははしたない。下品なことだ」と言って聞かせたりするよね。
「カネについて口にするのははしたない」という教えも、ある意味、「金銭教育」だと思う。でも、子どもが小さいときからそういった「教え」を刷り込むことで、得をするだれかがいるんだろうか?
 いる、とわたしは思う。
 従業員が従順で、欲の張らない人ばっかりだと、会社の経営者は喜ぶよね。「働き者で欲がなく、文句を言わない」というのがまるで日本人の美徳のひとつみたいに言われてきたけど、それって働かせる側にしたら、使い勝手がいい最高の「働き手」じゃないかな。
 そういう人間が育つように戦後の学校教育ってあったって思うし、そういう人間を使うことで日本の経済成長もあったと思うけど、もう、単純な経済成長なんか見込めないような今の時代に、そんな金銭教育のままでいいんだろうか(西原理恵子『この世でいちばん大事な「カネ」の話』角川文庫、2011年(初出2008年)、pp143-144)。


6.
 ただ、なぜわたしが、自分が育ってきた貧しい環境から抜け出せたかを考えると、それは「神さま」がいたからじゃないかって思うときがある。
 といっても、わたしは何かの宗教を信じているわけじゃない。
 でも、何かしら漠然とした「神さま」が、わたしの中にいる。
 もしかしたら、「働くこと」がわたしにとっての「宗教」なのかもしれない、
 だとしたら、絵を描くのが、わたしにとっての「神さま」ってことになるのかな?
 わたしは自分の中にある「それ」にすがって、ここまで歩いてきた。
 まわりの大人たちを見てごらん。
 下町の町工場のオヤジさんも、威勢よく声をはりあげている八百屋のオバちゃんも、ちょっとやそっとのことじゃあ、お店は閉めない。
 生きていくなら、お金を稼ぎましょう。
 どんなときでも、毎日、毎日、「自分のお店」を開けましょう。
 それはもう、わたしにとっては神さまを信じるのと同じ。
 毎日、毎日、働くことがわたしの「祈り」なのよ。
 どんなに煮詰まってつらいときでも、大好きな人に裏切られて落ち込んでいるときでも、働いていれば、そのうちどうにか、出口って見えるものなんだよ。
 働くことが希望になる―。
 人は、みな、そうあってほしい、これはわたしの切なる願いでもある。

 
 覚えておいて。
 どんなときでも、働くこと、働き続けることが「希望」になる、っていうことを。
 ときには、休んでもいい。
 でも、自分から外に出て、手足を動かして、心で感じることだけは、諦めないで。
 これが、わたしの、たったひとつの「説法」です。
 人が人であることをやめないために、人は働くんだよ。
 働くことが、生きることなんだよ。
 どうか、それを忘れないで(西原理恵子「おわりに」、同上、pp191-193)。


現代日本の人気マンガ家・西原理恵子は、精神科医中井久夫のいう「おそらくかつて繁栄したことがない社会」に育った人物である。大ベストセラーとなった本で西原が提唱している労働倫理は、明らかに中井のいう「執着気質的職業倫理」ではなく、むしろ「気ばたらき」や「職人的器用さ」に近いだろう。しかし、それよりも重要なことは、西原理恵子が日本的な「仕事の再神聖化」(経済学者・杉村芳美によれば、カトリックのイギリス人思想家・エリック・ギル(1882-1940)が問題提起した概念)を全面に打ち出していることである。


―「働くとは我が身のためならず、はたはたを楽にすることなり」(天理教教祖・中山みき
―「余暇の目的は仕事、仕事の目的は神聖性、神聖性は全体を意味する」(エリック・ギル『労働の聖なる伝統』)