ハシズムの問題点
JMM [Japan Mail Media] No.670 Saturday Edition より転載
『from 911/USAレポート』第554回
「橋下徹市長の政治手法は何が問題なのか?」
■ 冷泉彰彦:作家(米国ニュージャージー州在住)
大阪市の橋下徹市長の政治手法が大きな関心を呼んでいます。例えば、アメリカから見ていますと、橋下市長の主張の中には納得できる部分もあるのですが、同時にクビを傾げる部分もあります。今回はその辺を少し整理してみようと思います。
まず「教育改革」の問題ですが、例えば北大の山口二郎教授を一方的に追い詰めたディスカッションなどを見ていると、アメリカで進んでいる議論と似ているのを感じます。例えば、この欄で既にお話しているように、2010年にヒットしたドキュメンタリー映画『ウェイティング・フォー・スーパーマン(スーパーマンを待ちながら)』では、ワシントンDCでの教育改革を追いながら「いかに腐ったレモン(ダメ教師)」を駆逐するのが難しいかという問題を提起しています。
既得権益に固執する教職員組合に対して、保護者や社会の期待に応えた改革者が「教員の質の向上」を目指して闘うという構図はソックリです。ですが、外側の構図はソックリなのですが、具体的な議論に入ってゆくとかなり違う点もあることに気付かされます。
まず、日本では公教育における能力主義の導入の可否が議論になっていますが、アメリカでは(恐らくは世界のどこでも)そんな議論はありません。泳げない子供には息継ぎを教え、競泳レベルの子供にはどんどんタイムを競わせるのと同じように、数学が好きな子にはどんどん微積分まで突っ走ってもらわねば困るし、苦手な子には苦手意識を脱するような丁寧な指導が必要だというのは、多くの国で当然とされている考え方です。それを「全員一緒が平等」というような話になっているのは非常に特殊と思われます。
私立校と公立校の位置づけの問題も、日米では大きく違います。日本の大都市圏の場合は、富裕であれば子供を塾に通わせて私立の小中高へ行かせるわけです。私立校の多くは受験校です。また受験校でない場合は大学の系列校ですから内部進学生にはそれなりの学力を付けて送らないと大学が沈没してしまいます。そこで私立校の内部では到達度別の教育を始めとした競争が行われています。正に能力主義そのものです。
ですが、いわゆる教育問題に関する平等を主張する人は、私立校の中の競争主義には批判はしないのです。公立校に関してのみ、能力主義の導入は非人間的だという主張をするのです。ということは、経済的な理由で公立校にしか行けない子供は、勉強熱心な大学への進学を可能にするような教育を受ける機会は極めて限定されてしまいます。
アメリカの場合は、まず小中高の私学に対する公的な助成はほとんどありません。ですから、結果的に私立は年間の授業料と寄付金だけで運営せざるを得ず、その授業料は一年で200万円とか300万円という水準になってしまいます。ですから、対象が富裕層に限定される、つまり支払い能力で選別がされるので大規模な「お受験」競争が起きることもないし、そこで行われている教育内容について誰からも文句を言われる筋合いはないのです。
アメリカの問題は、あくまで公立校であり、更に言えば市町村の独立採算制が厳しい中で、とりわけ生徒一人あたりの税収が乏しい学区域の「学力到達度」が問題になっているわけです。これに加えて、アメリカの場合は公立学校の教員の給与は非常に低く抑えられています。年収は大半の先生が4万ドルから7万ドルであり、契約は9月から6月まで、つまり夏休みの7月8月は無給という厳しい学区もあるのです。
一方で公立校では能力別のクラス編成が行われています。州により学区により異なりますが、小学校の4年生ぐらいから数学は能力別クラス編成になっており、学年が上がるごとに進度は異なっていきます。最終的に高校を卒業する12年生になると、例えば私の住んでいる学区の場合は、6学年分ぐらいの差がつくのです。
公立校でそうした「能力主義」を導入しているのはアメリカでは全く普通のことです。問題は、予算の限られた学区では、こうした数学の上級クラスを上手に教える先生を引っ張ってこれないという点にあります。ですから「腐ったレモン」を追放せよなどという問題が大きな論議を呼ぶわけです。
この「腐ったレモン」というのはヒドい言い方ですが、決して「でもしか先生」というイメージではないのです。アメリカの場合は、「教師=薄給」というのは社会常識になっており、お金よりも理想を目指して教師になる人がほとんどです。であるにも関わらず才能がないために「一生懸命やっても」生徒の学力を伸ばすのが「下手」な教師のことを「腐ったレモン」と言っているわけです。勿論、本人が大真面目で組合も守ろうとしている、しかも生活がかかっていて、つぶしの利かない人材を「追放する」というのは大変は大変なわけですが、日本の状況とはレベルが違います。
そんなわけで、この教育の問題に関しては、橋下市長の主張は合理的であると思います。公立学校での学力向上を重要な目標として、その観点から教員の評価を行うという流れは、何よりも格差是正策であり世代間での格差の固定化を避けようという点で正論だからです。また、橋下市長の改革を批判している勢力に限って、自分の子供を私学に入れているのであれば、そうした主張には何ら説得力はないというのもその通りだと思います。
では、この「大阪維新」の何が問題なのでしょう?三点挙げておきたいと思います。
一つ目は、折角の教育改革を「日の丸・君が代イデオロギー」と混ぜてしまっていることです。戦術論としては橋下市長の作戦は一理あります。指導能力が欠けているのに、既得権益を固守している組合を批判する上で、この問題は有効だからです。例えば、卒業式で君が代を歌わずに座っている教師というのは、ある意味で非常に傲岸に見えるのです。
我々の世代以上であれば、国に依存した結果ひどい経験にあった世代の「生存本能」として国を信じないカルチャーがあるということは納得できるのですが、若い世代にはその「ひどい経験」はリアリティは薄いわけです。そうした世代からは、座っている教師というのは「国家何するものぞ」という威張り切った態度、あるいは国を裏切る悪人に見えてしまうのです。
その悪イメージと、能力がないのに地位にしがみつき、しかも高給を得ているというイメージをミックスしてしまえば、世論を操作するのは簡単ということになるわけです。では、このアプローチがどうしていけないのかというと、それは、橋下市長の「日の丸・君が代攻勢」に対して感情的になると、組合系の先生たちは「自分たちが反戦平和の最後の砦」という感情論からイデオロギーの喧嘩を買うことに熱心になってしまうのです。政治的には橋下市長として「完勝」であり、組合は「罠にはまった」だけということになりますが、そこで費やされるエネルギーはムダです。
イデオロギーの土俵に相手を誘い出せば、市長は勝つでしょう。勝つのが目的ならばそれでもいいかもしれません。ですが、本当に大阪の教育を改革したいのなら、能力主義や能力別の導入、指導力の評価という実務的な問題に限って「闘う」方が誠実だと思うのです。もっと言えば、イデオロギー論議を混ぜて失敗した安倍晋三政権の「教育改革論議」の二の舞になる危険があるということです。
この「日の丸・君が代イデオロギー」に関して言えば、例えば君が代に反発して座っている教師と、それに怒る校長や教委という「対立」を見せるのは生徒に失礼だという議論があります。ですが、この問題に関しては「分裂しつつバランスしていること」が現在の日本の「国体=国のかたち」であり、それを一方から力で抑えこんでも教師集団の精神的な権威は向上しないということも指摘しておきたいと思います。そんなことより、卒業式に「共に教育関係者として卒業生を祝福すべき」存在の教育委員を「来賓」だとして卒業生や教師全員がペコペコしなくてはいけない習慣など、直したほうが良いことは他にあるように思うのです。
大きな二点目は、大阪の経済成長をどこまで具体的に考えているのかという点です。例えばこれまでの府知事としての実績や市長として取り組んでいる問題については、そんなに「外し」はないと思います。コストカットについても、府庁舎問題についても、行政手腕として間違ってはいないように見えます。関西3空港の問題も、非常に合理的だと思いますし、リニアの件も本当に大阪まで来るのなら(山陽との接続問題は考えるべきですが)梅田乗り入れが検討されるのは当然でしょう。
カジノ誘致の構想も、ギャンブル依存症の深刻さなどを考えると気が進まない考えであるものの、「そんなカンフル剤を打たねばならない」ほど大阪の経済が重症だということからすれば、否定は難しいと思います。お台場カジノとは意味合いが違います。もう一つ、高齢者よりも現役世代を優先するという発想も、これからの都市の活性化の中では重要な論点でしょう。この問題を正面切って取り上げていることは評価すべきだと思います。
ですが、例えば市長との共著本である『体制維新』で堺屋太一氏が言っているような「一流のトップ100人を大阪に呼ぶ」とか「大阪歌舞伎、大阪画壇が消滅した」ことに象徴される衰退からどうカムバックするか、というような観点から見た時に、前向きな構想は具体的に何もないのです。
例えば、同じ本の中で橋下市長はロンドンをライバルとして描いているようですが、ロンドンが再生したのは欧州の金融センターとして、英語圏の強みを生かしたという一点にかかっているわけです。では、大阪は往年のようにアジアの金融センターになりうるのか、というとそうした具体的な発想はないわけです。少なくともメガバンクの本部をどうして東京に取られたのか、どうすれば取り返せるのかという発想は必要でしょうし、日本のメガバンクよりも、中国系の銀行や欧米系の銀行・証券を招致できるのあれば、それでもいいわけです。
関西圏ということでは、例えば任天堂とかワコールといった企業は少子高齢化の影響を強く受けているわけです。そこをどうするか。例えば大阪を代表する企業であるパナソニックは、新卒採用の8割を外国人にし、物流部門をはじめとして本部機構をシンガポールに移す構想を持っています。市長として、どうしてそうなったのか、どうすれば引き止められるのかという問題意識はあまり無いようです。
もっと言えば、カジノで当面の活性化をやり、文化や思想の「古いエリート」を抹殺するのはともかく、新しい超一流を招聘することもせず、企業がどんどん脱出したり衰退するのを放置する、更に刹那的なポピュリズムと公共セクターの縮小だけを続けるという延長にあるのは、「せいぜいが中国や韓国の高級下請け都市」として延命するというビジョンしかないように見えます。
その背景にあるのは、橋下氏のリーダーシップのスタイルです。橋下氏をヒトラーに例える人もいるようですが、それは的外れだと思います。ヒトラーよりも、例えばシンガポールの「創業者」李光耀(リー・クワンユー)顧問相のようなスタイルを志向しているように見えます。アジア型の「権利を制限し、秩序を重んじる」つまりは効率の良い開発独裁のスタイルを、右肩上がりではなく、右肩下がりの時代に適用する、つまり「衰退時の独裁」を通じて「延命のためのコストカット」をやっているだけに見えます。
基本的には後ろ向きの戦略であり、「その先」にあるはずの「破壊の後の創造」のビジョンが全く見えないわけです。ではそうした「リストラ」は不要かというと実は必要なのです。ですが、カットばかりやっていてはジリ貧になって、気がついたら本当に中国の下請けになってしまうわけで、日本の場合にはまだまだ「ポスト産業化社会の成熟のその先」にある「高付加価値産業」という可能性は残っているのですが、その芽を潰すことにもなりかねません。
もしかしたら、橋下氏はそんなことは分かっていて、自分は過渡期の壊し屋であり、破壊を通じて形骸化したものを取り除き、「焼け野原からの復活」は別の人なり次の世代で、という「達観」をしているのでしょうか? 橋下市長が自分は壊し屋に徹しているのなら良いのですが、どうもそうではないようなのです。それは国政を意識するような発言が出てきていることでも分かります。
三点目はこの問題です。壊し屋のままで国政を目指すというのは、無理があります。大阪での「ぶっ壊し」に関しては、半分は本当にぶっ壊す、つまり公費での助成を止めたり、既得権益を取り上げたりすることが入っているわけです。残りの半分は「国の責任」だという突っぱね方をして、地方の負担を減らすとか地方の裁量権を増やすという方向を志向しているわけです。
橋下市長はそれでも国政を目指す理由として、例えば大阪都構想を実現するためには、中央レベルでの法改正が必要だという理屈をつけています。その話はテクニカルには筋が通るのですが、仮に大阪都構想を中心に掲げて国政に影響力を持ち、更に「劇場型」の観客に漠然と期待がある中央レベルでも「ぶっ壊し」をやってもらいたいという話だけで中央政界に出て行っても挫折することは目に見えています。
国政というのは財務、外交、安全保障、産業振興、農林水産行政など多岐にわたるわけです。そこで本当に意味のある「ぶっ壊し」をやるには、大変なエネルギーが必要でしょう。また世界のGDPで第三位の大国を「壊す」だけでは大変なことになります。将来の方向性を示してゆかねば日々の決定も不可能になります。結果的に、ブレーンの質量が確保できなければ何も進まず、結果的に建武の新政が失敗した時の「二条河原の落書」になるような可能性が高いと思います。
もっと言えば、アメリカの「小さな政府論」には公費は出せないが相互扶助の仕組みは作る、連邦はやらないが地方では自由にというような「受け皿」があるわけです。とにかく切り捨てるだけ、ぶっ壊すだけというのは「フルスペック」の政策とは言えません。
話を最初の教育改革に戻しますが、仮に既得権益に安住した「でもしか教師」の追放ができ、能力別のクラスが動き出したとして、そこで有効な教育のメソッドとは何なのか?教師育成のしくみはどうするのか?といった問題ははるかに難しい課題としてあるわけです。例えば5年後に多くの大学が9月入学になり、本当に留学生を交えての英語での教育が始まるのであれば、組合系の教師を追放して塾の先生を招聘するというような「改革」では済まないわけです。
とにかく、改革というのは「こうありたい」という前向きな情熱があって初めて前進が可能なのであり、破壊の衝動が先行するというのは順序が逆です。と言いますか、それでは衰退の一つのエピソードで終わるだけになってしまうのではないかと思うのです。
ちなみに破壊、つまり何かを終わらせるというのは、実は大変な冷静さが必要なのだと思います。明治維新に際して、統治能力を失った江戸幕府が整然と破壊されていった背景には、勝海舟という静かな巨人の存在があったことを忘れてはなりません。