「民衆宗教」と代受苦

寺で八時間、こころに積もったものを語りつづけた女性に聞かれたことがある。
「わたしは全部、思いをはき出しました。それを受け取ってくれたんですね」
「はい、受け取りましたよ」
「住職さん、苦しくないですか?」
「それは安心してください。今度は仏様に吸いあげてもらいますから」
篠原さん(熊田註;曹洞宗の僧侶)は、実際苦しくなると、お経を読むか坐禅を組む。
「そこは、宗教者のありがたいところです。仏というものは非常に身近で、私は具体的なイメージで考えています。からだはちょっとつかれることはあっても、精神的には大丈夫なんですよ」
そういって、篠原さんはにっこり笑った(磯村健太郎『ルポー仏教、貧困・自殺に挑む』岩波書店、2011年、p.126)。


*そもそも、ケアの実践とは本来「受動的なもの」なのかもしれません。精神科医中井久夫さんが、確か『最終講義』(いま手元にありません)で、「治す、という表現には医者の奢りを感じます。治すのではなく、治っていただくのです。」「精神科医は、治癒という大きなプロセスの中におけるただの媒介にすぎません。」という意味のことを言っていたと思います。こういう考え方には、中井さんが宗教都市である天理市に生まれたことも関係しているかもしれません。