自分の体は自分のものか?

 多くの人の理解を得られるであろうような身体に関する法的ルールは、身体はその人の「典型的な所有物」ではないという別の想定によっても、少なくとも同程度に説明可能である。身体は社会公共(共同体)すべての成員の共有物で、あなたが自律的に思考し行動する個人である間だけ、あなたに利用が委ねられているだけだと考えても、上述の「自己の生の意義づけに関わる重大な決定」に関する限りは、委ねられた利用権にもとづいてその利用の仕方を決められることになるし、他方で、そもそもは共同体の財産である以上、勝手に一部ないし全部を譲渡したり破壊したりすることはできず、さらに、自律的思考力が停止すれば共同体の共有物に復帰することになる。つまり、死後の処分の仕方は、臓器の移植や遺体の火葬・埋葬にいたるまで、共同体のルールにしたがったものでなければならない(墓地・埋葬等に関する法律参照)(長谷部恭男「憲法学から見た生命倫理」『憲法の理性』東京大学出版会、2006年;pp.155-156)。


天理教の「かしもの・かりものの理」に関する教義は、憲法学の見解とも矛盾しないようです。遺体は、誰にも相続されません。