「やわらかな治療」と宗教

 くりかえして申しますが、私たちは「とにかく治す」ことに努めてきました。今ハードルを一段上げて「やわらかに治す」ことを目標にする秋(とき)であろうと私は思います。かつて私は「心の生ぶ毛」という言葉を使いましたが、そのようなものを大切にするような治療です。そのようなものを畏れかしこむような治療です。それは社会復帰の道をなだらかにするものでもあるはずです。「人好きのするように治す」と近藤廉治は言いました。
 正しくは「治す」ではなく「治ってもらう」でありましょう。「治す」にはどこか医者のおごりを感じます(「・・・してもらう」は欧米語にない表現です)(中井久夫『最終講義ー分裂病私見みすず書房、1998年;pp.83-84)。


 中井さんの言う精神科における「やわらかな治療」に宗教が果たすべき役割は、間違いなく大きいはずです。逆に、抗うつ剤SSRI(選択性セロトニン再取り込み阻害薬)の安易な処方に代表される現代日本の精神科治療における薬物療法至上主義は、「かたい治療」の典型的な例でしょう。量で圧倒しようとするような薬物の使用法に対しては、“原爆主義”という皮肉があるそうです(中井久夫『精神科治療の覚書』日本評論社、1982年、p.78)
 中井久夫さんが別のところで指摘しているように、日本の精神医療は、欧米の精神医療が近代に脱宗教化されたのに対して、近世(江戸時代)というずっと早い時代に脱宗教化されたのであり、それだけに、「近代は終わった」とも言われるいま、ようやく<再宗教化>の必要を欧米よりもずっと痛切に感じている、ということでしょう。