<夫婦の絆>またはロマネスクな家畜

 そう・・・・・・たとえば・・・・・・ぼくは彼女を自主的に選び征服したつもりだった。ところが真相は、ぜんぜんその逆で、ぼくはむしろ食肉用家畜として彼女にとらえられ、飼育されていたにすぎなかったのである。いや、考えてみると、それも実はたいしたことではなかったのかもしれない。どう言ったらいいのか・・・・・・つまり・・・・・・ぼくが彼女を殺したのは、ほかでもない家畜の運命からのがれるためだったのに、その結果手に入れられたのが、結局飼い主を失った家畜の運命にすぎなかったという・・・・・・いや、そうした例も世間にはままあることだ・・・・・・肝心なことは・・・・・・そう、多分・・・・・・あの家畜としての心情が、あまりにもロマネスクな夢に満ちあふれていたことではあるまいか。ロマネスクな家畜などというものが、物語の中にしか存在しないくらい、百も承知していながら、しかも物語の中に居つづけなければならないのだから、これほど怖ろしいことはない。ぼくのワイシャツの襟は垢だらけになり、それにもまして、ぼくの心も垢だらけになってしまった。仕方があるまい、今のぼくにできることと言えば、せいぜいそれくらいのことしかないのだから(安部公房「人魚伝」『無関係な死・時の崖』新潮文庫、1974年(初出1962年);pp.303-304)。


 以前、このダイアリーで、保守派の好きな<絆>という日本語の原義が「動物をつなぎとめる綱」であることを指摘しました。

http://d.hatena.ne.jp/kkumata/20080228

 その意味では、近代日本社会における<夫婦の絆>は、そもそも「飼育する者ー飼育される者」という意味でのSM関係と親和性が高かったのでしょう。妻が夫のことを<主人>と呼ぶ習慣が今でも存在することなど、その典型だと思います。安部公房が短編小説「人魚伝」で試みたのは、「ノーマルな夫婦関係/アブノーマルな飼育関係」という二分法の脱構築だったとも言えるでしょう。「ロマネスクな家畜」とは、安部公房らしいシャープな言語表現です。極論すれば、ロマンティック・ラヴ・イデオロギー(「恋愛=結婚=性」を三位一体とする思想)を内面化し、夫のことを「主人」と呼んでいた近代日本の専業主婦は、みんな「ロマネスクな家畜」だったのかもしれません。それにしても、ロマンティック・ラヴ・イデオロギーの最盛期にこんなことを考えていたとは、安部公房はやはり非凡な才能の持ち主です。