現代日本におけるグノーシス主義

 「信仰。それは、ただ神の笞を受けるために、うなだれて審判の台に向ふ事のやうな気がしてゐるのでした。」それがほんとうの人間の声というものではないだろうか。「神の愛は信じられず、神の罰だけを信じてゐるのでした。」福田恆存氏がこのことをつぎのように解説したことがある。「太宰治は自己を責める『神』は発見したが、自己を許す『神』は発見しなかったのだ。そしてこのことは現代日本の知識階級にとって、いまなほ解決しえぬ最も根本的な課題なのである。おそらくわれわれはこの太宰治のつまづきから出発しなければならぬであらう。」きわめて的確な問題の指摘だと思う(佐古純一郎『太宰治におけるデカダンスの倫理』現代文芸社、1958年、p.127)。

 福田=佐古のこの問題提起を私なりに言い換えれば、高学歴化が進んだ現代日本の一般大衆にとって、グノーシス主義は重要な思想的課題であるということです。

ー「無を信じることは、神を信じることと同じくらい強い。」(伊藤整『近代日本人の発想の諸形式』岩波文庫、1981年)