佐藤忠男と職人的男性性

 関川夏央の「おじさんはなぜ時代小説が好きか」(岩波書店、2006年)に、次のような指摘があります。

 藤沢修平の武家ものにはサラリーマン社会のにおいがあるといいました。長谷川伸の世界の住人は、技術を頼りに仕事先を流れ歩く孤独な職人たちのようでした。では次郎長一家の物語はなにかといえば、不況の中で会社を立ち上げて生き抜こうとする人々の思いや生態と重なります。バクチ打ちの集団ですから生産的とは言いかねますけれども、どこかベンチャービジネスの集団のようです。読者(観客)はアウトローに、孤独なモラルと集団の明るい楽しさ、その両方を託したのですね(p200)。

 日本で男性性について先駆的な論考を展開した映画評論家の佐藤忠男は、長谷川伸の股旅もの、特に「沓掛時次郎」を高く評価していました。そうした価値判断の背景には、佐藤自身が文筆業に転じる前は電話機の検査工という職人だったことがあると思います。哲学者の鶴見俊輔は、佐藤忠男を「孤独なヤクザ」と評しましたが、「職人的男性性のモラルの探求者」と見ることもできるでしょう。男性学に興味をもつ大学教師には佐藤忠男を高く評価する人が多いという印象がありますが、それは、大学教師という職業がサラリーマンよりもむしろ職人と類似点が多いせいではないでしょうか?