母だけではないアニマ

*「愛知学院大学人間文化研究所所報」33号より転載


────「すべての女性は美しい。男性は、美しい女性のために作られた玩具である」(出口王仁三郎

 このエッセーの目的は、近代という時代が生んだ深層心理学の理論が、現代日本の大衆消費社会の現実をもはや説明できなくなっていることを指摘し、男性に「内なる女性性」を完全に解放するように呼びかけることにある。
 次の文章は、近代日本の宗教文化に大きな影響を与えた神道新宗教の大本(一八九二―)の「聖師」(男性教祖)出口王仁三郎(一八七一―一九四八)が、十五年戦争直前の一九二九年に発表した文章である(『復刻版出口王仁三郎』第五巻、天声社、一九九八年)。

 神は天地を造り、樹草を生み、つぎに一人の女を造ったという。(中略)天も地も何として美しい事よ、神様、私の為に能くもこんなまあ清らかな住所を造って下さいました、と云って涙ぐましくなるほど神さまに感謝を捧げて居たが、忽ち躍り上がって叫んだ。それは、その傍なる沼の清らかな水に映じた自分の艶麗な姿を見たからだ。(中略)女は神様に向かって、神様よ、私の機嫌の好い時には、夫れぞれの役目を尽くしてくれますが、一寸小言を言ふと、直ぐに逃げ去るようなものは要りませんぬ。私が怒れば宥めて呉れ、泣けば慰めて呉れ、疲るるばいたわって呉れ、どんな無理難題を云っても悦んで聞いて呉れ、私の言う事為る事を真似て呉れ、一生私の玩具(おもちゃ)となって私を養って呉れ、守護してくれて、假令私が嬲り殺しにしようとも、満足して死んでくれるものを造って頂き度い、と願ったので、神様は女の頤使(いし)に甘んずる、そして玩具となる男と云うものを造ってやられた。

 旧約聖書天地創造をパロディー化したユーモアまじりの戯作であるが、王仁三郎のナヨッとした女性的な側面がよく表れている文章である。
 この文章から、文豪・谷崎潤一郎(一八八六―一九六五)の耽美主義・マゾヒズムを連想する人もいるだろう。確かに、大知識人であった王仁三郎は、おそらく谷崎の『痴人の愛』(一九二四)を意識していたであろう。両者は、軍国主義の時代風潮に背を向けようとする姿勢を共有している。「マゾヒズム」は、男性が「社会的暴力を回避するための近代的な戦略」なのである。(ジョン・K・ノイズ『マゾヒズムの発明』青土社、二〇〇一年)。しかし、王仁三郎の文章には、『痴人の愛』にあった「白人コンプレックス」がない。さらに、谷崎の耽美的なマゾヒズム文学が、盲目の美少女・春琴に下男の佐助が仕える『春琴抄』(一九三三)に典型的に見られるように、あくまで「男性が美しい女性を愛でる」という構造をとっているのに対して、王仁三郎の文章は、「女性が自分自身の美しさを愛でる」というナルシステックな構造をとっている。谷崎に残っていた男性中心主義(男性は「見る主体」、女性は「見られる客体」という発想)が、王仁三郎の文章では完全に払拭されている。
 精神分析の開祖フロイト(一八五六―一九三九)は、自律した成人の対象愛を健全な愛とみなし、ナルシシズムを女子供の未熟な愛とみなした。フロイトナルシシズムに対する評価は確実に偏っており、現代の精神分析は、コフートらの対象関係論によって、成人男性の「健全なナルシシズム」の重要性を認めている。フロイトは、お洒落を楽しむことなどなかったのではないか。分析心理学の開祖ユング(一八七五―一九六一)は、人間は本来両性具有的であり、男性の無意識には女性の原型が、女性の無意識には男性の原型が存在すると考え、そうした原型をアニマ、アニムスと名付けた。そして、中年期以降、人間はこうした無意識の中の異性を「自己」の中に統合して成熟すると考えた。
 しかし、ユングの理論にもまた、男性中心主義が根強く残っている。ユング理論のアニマ/アニムスの位置づけには、非対称性が存在する。ユングは、アニムス(女性の中の男性性)は複数であるのに対し、アニマ(男性の中の女性性)は、基本的には母(ないし母代わりの女性)ひとりであると考えた。この理論の背景には、「女性=母性」という近代的なジェンダー・バイアス、さらには男性中心主義が存在する(デマリス・S・ウェーナ『ユングフェミニズム―解放の原型』ミネルヴァ書房、二〇〇二年)。
 アニマもまた、母ひとりではなく、アニムス同様、複数であると考えるべきではないか。言い換えれば、男性の無意識の中には、「母」だけではなく、「少女」も「老婆」も存在するのではないか。上記の王仁三郎の文章は、彼の無意識の中の「少女」を表現したものではないか。そして、近代社会は、男性に対してこうした「母だけではないアニマ」を抑圧しつづけるようにし向けてきたのではないか。
 逆説的なことに、男性中心主義を批判する現代日本フェミニズムさえもが、こうした男性の「母だけではないアニムス」の抑圧に部分的に加担していたのではないか。フェミニズムは、男性に対して、仕事一辺倒のライフスタイルから離れて、「母性」を発揮し、子育てに参加することを奨励する。しかし、男性に内なる「少女」や「老婆」を発揮するように奨励することに関しては、相対的に積極的ではなかったように思われる。美しく着飾った男性が鏡の前でウットリしていたら、「キモい」と感じる女性は、フェミニストも含めてまだまだ多いのではないか。私は、ある高名なフェミニストが「リカちゃん人形が好きな男なんてキモい」と公言するのを聞いたことがある。ましてや、美男子ではない男性、不細工な男性が同じことをしたら、残酷な嘲笑の的にする女性は非常に多いと思う。
 近代の男性中心主義社会では、「人間」の基準は「男性」(man)であり、そこからはずれて有徴化されたのが「女性」(woman)である。したがって、「女性の男性化」は、「人間」に近づくことであるから、許容されやすい。現代日本では、強くなった「男っぽい女性」は「カッコイイ」と感じるようになった人は、若い世代を中心としてすでに非常に多いと思う。しかし、「男性の女性化」は、「人間」を下りることであるから、まだそう簡単には許容されないのである。美男子が「女性化」すれば、まだしも「名誉女性」としての地位が与えられる。しかし、不細工な男性が「女性化」すれば、「人間」扱いされることすら危うい。「母だけではないアニムス」はまだまだ抑圧されているのである。
 「美少女の刺客」をヒロインにした小山ゆうの人気漫画(一九九四―)を映画化した「あずみ」(二〇〇三)では、美少女・上戸彩が演じるヒロイン・あずみのライバル・悪役として、女装した男性が登場した。この悪役は、化粧して女装しているのだが、「人殺しを楽しむサディスト」として描かれており、最後は、あずみと戦ってあずみに首をはねとばされる。日本の一般大衆には、化粧して女装しているような男性はどうせ異常者に決まっており、そんな男性は抹殺されて当然、という無意識の近代的な偏見がまだまだ残っているのではないか。これは、ホロコーストに通じる感性である。
 「ジェンダーフリー」の実現を目指す現代日本フェミニズムは、「みんな違って、みんないい」(金子みすゞ)と主張する。しかし、一九六〇年代の日本のウーマン・リブを記録した映画を見たことがあるが、その映画に登場するウーマン・リブの「闘士」たちのファッションは、みんな揃ってスッピン、ショート・カットの髪型、ジーンズにシャツであった。「女は男に媚び、男は社会に媚びる」(田中美津)ことを批判した彼女たちは、そうした出で立ちに「私たちは男に媚びない」というメッセージを込めたのであろう。しかし、ファッションは「異性に媚びる」ためのものだろうか。
 最初から大衆消費社会状況の中で育った今の若者の大半は、男女を問わず、「装い」は、「異性のため」のものでも「同性のため」のものでもなく、「自己表現のため」と考えている。自称「乙女派文筆家」巌本野ばら(一九六八―)の小説『下妻物語―ヤンキーちゃんとロリータちゃん』(学陽文庫、二〇〇二年)には、異性の目も同性の目もまったく意識していない少女たちの、独自のファッションへの偏愛が描かれている。現代日本では、男性も「見られる客体」であることを意識しており、男性もすっかりお洒落になったし、男性向けのファッション産業・美容産業が急成長している。しかし、若者の場合と違って中高年男性のファッションには、「ちょいモテおやじ」というコピーによく表れているように、「異性にもてたい」という「不純な」動機があるように思われる。
 「私はピアスをした男性が嫌いだ。いっそペニスケースでもつければいい。」「文明が生み出した最悪のもの、それはババアである。」と言い放つ石原慎太郎東京都知事のような、確信犯的な性差別主義者は論外である。しかし、「母だけではないアニマ」、「内なる少女」の抑圧をやめて「純粋な自己表現」としてのファッションに身を包み、鏡の前でウットリしている若い男性を「キモい」と言いかねない年配の女性たちもまた、間接的に男性中心主義と性差別に加担しているのである。老婆心(男性の「内なる老婆」!)ながら、苦言を呈しておきたい。

────「もてたいためのロックンローラー、あなた動機が不純なんだわ」(山口百恵