精神科医・斎藤学氏の勘違い
親フェミニズムを標榜する男性知識人が、覇権的男性性とグルになる男性性から完全には脱却できないでいる一例として、マスメディアで高名な精神科医の言説を取り上げておく。精神科医の斎藤学氏は、日本にアメリカからアディクション・アプローチを本格的に導入した人物のひとりであり、一般読者向けの書物を量産して、日本のマスメディアでは大きな影響力をもつ。斉藤学氏は、フェミニズムの主張を理解しようと努めており、その姿勢は評価できる。しかし、斎藤学氏の男性性についての発言を読むと、この人の「男らしさという病」についての理解の底の浅さが窺われる。「どこかで他人の役にたっていないと、特に異性の役にたっていないのが男という存在だと割り切ると「男らしさ」ということがすこしわかる気がする。しかし、そう考えると解せない幾つかのことがある。なぜ「男」は本来守るべき異性を威圧したり暴力で支配したがるのか。おそらく男がその中で暮らすシステムの問題だと思う。社会システム、職能システム、家族システム。ヒトの男という種はシステムの維持に貢献するという固有の傾向をもつのではないか。十五万年の歴史の中で、そのような傾向を強化されてきたのではないかと思うのだ。システムの維持のためには自己犠牲も厭わない、ついでにオマエ(つまり女)もそのようにしろ、というところから男にまつわる諸悪が始まるような気がする。」(斎藤学「男の勘違い」毎日新聞社、二〇〇四年)
一般に、「男というものは」で始まる「遍在する男性性」の存在を仮定する言説は、ジェンダーに関する社会構築主義(ジェンダーは社会や文化によって構築されたものとする理論)の観点からすればすべて間違いであり、単にその発言者自身の男性観を表現しているだけである。男だからみんな同じ感じ方をすると言うことはないのである。上記の文章には、斎藤学氏自身の男性観を表している側面があるのではないか。「ヒトの男という種はシステムの維持に貢献するという固有の傾向をもつ」という発言は、斉藤学氏自身が、私が「男らしさという病?」で批判した、近現代日本の「覇権的男性性」である「忠臣蔵=プロジェクトX的男性性」(「存在証明」のために一致団結してすべてを犠牲にする「滅私奉公」の世界)に自己同一化していることを表現している側面があるのではないか。この点は、おそらく斎藤学氏が属する世代の男性によるフェミニズム理解の限界であり、この点では斎藤学氏を非難する気はない。しかし、ドメスティック・ヴァイオレンスに関して、「なぜ『男』は本来守るべき異性を威圧したり暴力で支配したがるのか。おそらく男がその中で暮らすシステムの問題だと思う。」と認識していることに対しては、厳しく非難せざるをえない。「システム」という無定義概念にドメスティック・ヴァイオレンスの「責任」をすべて押しつけて、加害者男性を免責している発言だからである。極端な言い方をすれば、「妻子に暴力を振るうボクちゃんは悪くない、みんな世の中が悪いんだ」と宣言しているようなものではないか。こうした問題は、斎藤学氏の個人的な資質の問題というよりも、斎藤氏が属する日本の精神医療の業界全体が強固なジェンダー保守の体質を維持していることからくる構造的な問題なのではないだろうか。