大本とジェンダー

https://www.eaa.c.u-tokyo.ac.jp/blog/20220411-18/

ジェンダーの観点から見ても、安丸良夫出口なお』あるいは大本教は興味深く読むことができる。大本教では、開祖なおは「純粋できびしい正しさ」を特徴とする「変性男子」(へんじょうなんし)、聖師・王仁三郎は「この世界の汚れた具体性との媒介」を行なう「変性女子」(へんじょうにょし)とされ、実際の性と宗教上の役割としての性が交錯し、2人ともいわば両性具有的になっている。

仏教の「変成男子」(へんじょうなんし)は、女性はそのまま仏になることは難しいので、いったん男性になってから成仏するという考え方で、仏教における女性差別のひとつとも言われてきた。大本教の「変性男子」は、身体は女性だが霊的には男性という考えで、これを逆転させた形で、身体は男性だが霊的には女性である「変性女子」という対概念を持つ。ここには、ある種の男女平等観があるとも言えよう。

ただ興味深いのは、受講生のひとり(N・Mさん)が、「変性女子」=「王仁三郎」が持ち合わせている女性的な面(多様なものを包摂し、人間の弱さや愚かさを受け入れる優しさを持つ)と男性的な面(社会的経験を生かして宗教を時代とつなぐ)のギャップは小さく、「変性男子」=「なお」が持ち合わせている男性的な面(苦難に耐える強さ、逞しさを持ち、神の言葉の厳しい告知者として振る舞う)と女性的な面(家において完璧な献身という犠牲を払い、女が持つとされるより深い原罪性から神の意思を代弁するにふさわしい存在とされる)のギャップは大きいのではと指摘したことである。別の言い方をすると、安丸の見解あるいは大本教の教義とは異なり、「この世界の汚れた具体性との媒介」は女性的というより、むしろ男性的なのではという指摘である。これは、ある種の男女平等の地平においても残る男性の社会的優位という論点にも通じうる。

安丸自身が『出口なお』を必ずしも女性史研究と位置づけていなかった様子であるのも興味深い。実際、彼は1998年の「全国女性史研究者交流のつどい」において、自分の専門に日本思想史を選んだ頃、「けっして手を出すまいと心に決めた領域」として、「部落差別問題と植民地問題・アジア認識のような問題、そして女性史」の3つを挙げている。とはいえ、自分が取り組んできた「通俗道徳」の研究は「女性史」に関係するかもしれず、この道徳は「家父長制的な家族のなかの女性によってもっとも深く内面化されるもの」と述べている。そのうえで、「家型家族と「通俗道徳」は、戦後的な価値観からすれば前近代的に見えますが、じつは、近代化の過程でむしろ強められ、下層の民衆にまで浸透した」と指摘している(「「近代家族」をどう捉えるか」『安丸良夫集』1)。この発表に対して同じ場で報告した上野千鶴子は、「「家型家族」が近代化の過程で生まれたということに、安丸さんが賛成してくださったのは、大変心強い援軍であると、頼もしく思いました」と応じている。